法苑山 浄心寺(除災祖師)

浄心寺

名称 法苑山 浄心寺
通称 深川浄心寺 除災祖師
祖師像 除災祖師
所在地 東京都江東区平野2-4-25 [Mapion|googlemap]

【略縁起】
俗に深川浄心寺と通称される。万治元年(1658)通遠院日義上人を開山、小堀遠州の側室で四代将軍家綱の乳母であった三澤の局を開基として開創された。徳川家綱は三澤の局の菩提を弔うために境内地1万坪と徳川秀忠の姫君の住居・玄関・門等及び500両、さらに朱印地100石を寄進した。江戸十大祖師の随一と称され、身延山久遠寺の江戸出開帳の際には宿寺とされた。

浄心寺の御首題

  • 深川浄心寺の御首題

右に「身延山出開帳由緒之地」。中央の朱印は、中心に小さく「東京深川」、その周囲に「法苑山浄心寺」、周囲の枠にも文字があり、何かの文章の一節と思われるが、肝心な部分がかすれたり墨書と重なったりして読めない。左下は「東京 深川 浄心寺」。

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浄心寺について

山号 法苑山(ほうえんざん)
寺号 浄心寺(じょうしんじ)
院号
通称 深川浄心寺
御本尊 三宝尊
祖師像 除災祖師
所在地 東京都江東区平野二丁目4番25号
創建年代 万治元年(1658)
開山 通遠院日義上人
開基 浄心院殿妙秀日求大姉(三澤の局)
宗派等 日蓮宗

覚え書き

開基の浄心院殿妙秀日求大姉は小堀遠州の側室で四代将軍徳川家綱の乳母となった三澤の局。
ある時、上総国の小西檀林で修行していた日義上人が、夏安居を利用して深川の草庵で読経三昧に明け暮れしていた。その真摯な姿に感銘を受けた三澤の局が帰依し、外護するようになったという。
三澤の局は明暦2年(1656)没するが、日義上人に寺院を建立するよう言い残していた。しかし、上人も病の身となったため、学友の覚性院日通上人を小西檀林より呼び寄せて新寺建立を託し、翌3年(1657)遷化した。
そして日通上人は万治元年(1658)、日義上人を開山、三澤の局を開基として浄心寺を開き、自らは二世となった。また、徳川家綱は三澤の局の菩提を弔うために境内地1万坪と徳川秀忠の姫君の住居・玄関・門等及び500両を寄進、さらに寛文5年(1665)には朱印地100石を寄進したという。
また万治3年(1660)身延山と本末関係を結んだ際には、一本の木から二体彫られた七面天女のうち一体が譲られ、久遠寺の江戸における弘通所と定められた。第三世の日念上人の頃には江戸城登城の際には輿に乗り、将軍謁見の際には独礼が許されるようになったと伝えられる。
当時、江戸では各地の寺社の出開帳が行われた。その中でも特に人気が高かったのが成田山新勝寺、信州の善光寺、身延山久遠寺であったが、久遠寺の出開帳はすべて浄心寺が宿寺となっている。浄心寺の旧塔頭・一乗院のご住職は、浄心寺が江戸十大祖師の随一とされたのは、身延山の出開帳が行われていたことに由来するのではないか、とおっしゃっていた。
明治に至るまで、浄心寺の広大な境内には8つの塔頭(深川七福神の大黒天・円珠院もその一つ)をはじめ、本堂・祖師堂・七面堂など数多くの堂宇が建ち並んでいたという。しかし、大正12年(1923)の関東大震災と昭和20年(1945)の東京大空襲により、明治5年(1872)建立の水屋と同40年(1907)完成の祖師堂内陣(鉄筋コンクリート造)以外はすべて焼失した。
戦後、昭和33年(1958)に本堂、同44年(1969)に祖師堂が再建されているが、復興は充分とは言えず、昔の繁栄の面影は広大な境内に見るばかりである。かつて建ち並んでいたという多くの堂宇がなくなっているぶん、ガランとした印象を受ける。
御首題は寺務所にて書き置きのものをいただいた。帳面に書いていただくことができるかどうかは未確認。

写真帖

  • 門前風景

    門前風景

  • 水屋

    水屋

  • 鐘楼

    鐘楼

  • 和合稲荷

    和合稲荷

  • 関東大震災殃死者供養碑

    関東大震災殃死者供養碑

  • 無縁供養塔

    無縁供養塔

  • 本堂

    本堂


※掲載の情報は最新のものとは限りません。ご自身で確認をお願いします。

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