碑文谷八幡宮

碑文谷八幡宮

創建年代は不詳。社伝によれば、元久2年(1205)畠山重忠が二俣川の合戦で北条義時の軍に討たれた後、その守り本尊を家臣筋の宮野左近という人物が譲り受けて祀ったことに始まるという。社殿の右脇にある「碑文石」は、境内の西側を通っていた鎌倉街道沿いの土中から見つかったものと伝えらるもので、碑文谷の地名の由来とされる。
目黒区の神社

正式名称 碑文谷八幡宮〔ひもんやはちまんぐう〕
御祭神 誉田別尊(応神天皇)
社格等 旧村社
鎮座地 東京都目黒区碑文谷3-7-3 [Mapion|googlemap]
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御朱印

  • 碑文谷八幡宮の御朱印

    (1)

  • 碑文谷八幡宮の御朱印

    (2)

(1)平成18年拝受の御朱印。上の朱印は神璽、下は「碑文谷八幡宮」。

(2)平成28年拝受の御朱印。社号は印判。上の朱印は三つ巴の神紋、下は「碑文谷八幡宮」。

御由緒

碑文谷村の鎮守。別当は円融寺(旧・法華寺)の塔頭・神宮寺(廃寺)であった。

創建年代は不詳。社伝によれば、元久2年(1205)畠山重忠が二俣川の合戦で北条義時の軍に打たれた後、重忠の守り本尊を家臣の榛沢六郎成清から家人の宮野左近が譲り受け、当地に祀ったことに始まるという。

畠山重忠は源頼朝の重臣で、知勇兼備の武将として人望厚く、戦いにおいては常に戦陣を務めた。当社の御神体は、重忠が出陣に際して兜の前立物としていた像であると伝えられる。

当社には他にも重忠の鎧・兜・弓矢・古文書等が伝えられていたが、いつの頃か、天台宗と日蓮宗の争いで村内が混乱したとき、悪しき者が盗み出して売り払ってしまったということが古川古松軒の『四神地名録』(寛政6年/1794)に記されている。

昭和40年(1965)社号を八幡神社から現在の碑文谷八幡宮に改めた。

永正8年(1511)、寛永8年(1631)、宝永元年(1704)、明治5年(1872)に社殿の再建が行われたことが棟札に記されており、明治20年(1877)に改築が行われた。さらに昭和56年(1981)にも増改築が行われている。

社殿の脇には碑文谷の地名の由来とされる碑文石が安置されている。当社近くの呑川の川床に露出していた砂岩を用い、中央に大日如来の種字「バン」、左に勢至菩薩の種字「サク」、右に観世音菩薩の種字「サ」が彫られている。往古、当社の西を通っていた鎌倉街道沿いの土中に埋まっていたと伝えられる。大日如来を中心としながら、阿弥陀如来の脇侍である観音・勢至を配するところから室町時代のものであろうという。

また、末社の稲荷神社は榛沢稲荷と称し、榛沢六郎を祀るとも伝えられる。

写真帖

  • 一の鳥居

    一の鳥居

  • 二の鳥居

    二の鳥居

  • 三の鳥居

    三の鳥居

  • 境内

    境内

  • 手水舎

    手水舎

  • 神楽殿

    神楽殿

  • 碑文石

    碑文石

  • 稲荷神社

    末社 稲荷神社

  • 拝殿

    拝殿

  • 本殿

    本殿

メモ

最寄り駅は東横線の都立大学になるが、参道は小山方面に伸びている。東へまっすぐ続く立会川緑道は暗渠となった立会川の跡で、両脇の道路が土地整理の際に設けられた参道だったようだ。一の鳥居から二の鳥居手前まで、玉砂利と桜並木の参道も元は川の流れで、両脇の道路が元々の参道だったと思われる。境内は広く、大きな木も多い。その奥に風格ある木造社殿が鎮まる。古き良き時代の名残を残す神域である。

碑文谷八幡宮の概要

名称 碑文谷八幡宮
旧称 八幡神社
御祭神 誉田別尊〔ほんだわけのみこと〕(応神天皇)
鎮座地 東京都目黒区碑文谷三丁目7番3号
創建年代 不詳
社格等 旧村社
例祭 9月敬老の日の前日と前々日
神事・行事 1月1日/歳旦祭
旧2月上午の日/初午祭
4月上旬/春季例祭(さくら祭)
6月30日/大祓
12月30日/大祓

交通アクセス

□東急東横線「学芸大学駅」より徒歩約15分
□JR山手線「目黒駅」よりバス
■東急バス黒01系統大岡山小学校行き「碑文谷八幡前」下車すぐ

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