品川神社

品川神社

品川神社は北品川宿の鎮守。文治3年(1187)源頼朝が安房国洲崎大明神より御分霊を勧請したことに始まる。元応元年(1319)二階堂道蘊が宇賀之売命を勧請、さらに文明10年(1478)太田道潅が牛頭天王を勧請し、南の天王社(荏原神社)に対して北の天王社と呼ばれた。歴代徳川将軍から篤い崇敬を受け、東海寺の鎮守とされた。明治元年(1868)准勅祭社に列した。
品川区の神社

正式名称 品川神社〔しながわじんじゃ〕
御祭神 天比理之咩命 素盞雄命 宇賀之売命 
社格等 元准勅祭社 旧郷社
鎮座地 東京都品川区北品川3-7-15 [Mapion|googlemap]
東都神社御朱印集
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御朱印

  • 品川神社の御朱印

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  • 品川神社の御朱印

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  • 品川神社東海七福神大黒天の御朱印

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(1)平成17年拝受の御朱印。中央の朱印は「品川神社」、右上の印は「品川神社記」。

(2)平成28年拝受の御朱印。中央の朱印は「品川神社」、右下の印は「元准勅祭十社之内」。

(3)東海七福神、大黒天の御朱印。平成23年拝受。

昔の御朱印

  • 品川神社の御朱印

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  • 品川神社東海七福神大国神の御朱印

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  • 品川神社東海七福神大国神の御朱印

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  • 品川神社東海七福神大国神のスタンプ

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(1)昭和10年の御朱印。中央の朱印は「品川神社」。右上の印は「元准勅祭」、左下は「品川神社社務所之印」。右下のスタンプは社頭風景に「新東京八名所 眺望絶佳 東海七福神大国主 北品川天王山」「参拝記念」。

(2)昭和8年の御朱印、東海七福神としてのもの。中央の朱印は「品川神社」。右上の印は打ち出の小槌に「品川神社」、右下は「品川神社 北品川天王山 8.1.1 参拝記念」、左下は「品川神社社務所之印」。

(3)昭和16年の御朱印、これも東海七福神としてのもの。中央の朱印は「品川神社」、左下に「東海七福第一番」、上は右が鯛に「品川神社」、左が打ち出の小槌に「品川神社」。東海七福神の七福神は発足当初も現在も荏原神社だが、どういう事情があったのか、この頃は品川神社が担当していたようだ。左の授与日は「皇紀二千六百一年新正」で、昭和16年の正月であることがわかる。

(4)昭和10年、東海七福神のスタンプ。中央の印は打ち出の小槌に大国主神の御姿と三つ葉葵の神紋。右上の印は打ち出の小槌に「品川神社」、左は「品川神社社務所之印」、右下は「新東京八名所」「元准勅祭東京十社」「東京北品川天王山」「品川神社」「参拝記念」。左下は満州国皇帝来訪記念のスタンプで、品川神社とは関係がない。

御由緒

品川神社は、北品川宿の鎮守である。江戸時代は稲荷社(北品川稲荷社)と称したが、俗に北の天王社と呼ばれていた。『江戸名所図会』では「牛頭天王社」で項を立てている。

社伝によれば、文治3年(1187)源頼朝が海上安全と祈願成就のため安房国洲崎神社の天比理乃咩命を勧請し、品川大明神と称したことを創祀とする。

元応元年(1319)に二階堂道蘊が宇賀之売命を勧請、本社などを再建し、社地を吉瑞岡と名付けた。永享4年(1432)正清入道幸純が社殿と観音堂を再建した。

さらに文明10年(1478)太田道潅が牛頭天王(素盞嗚尊)を勧請した.以来、南品川の貴布彌社(荏原神社)を南の天王社と呼ぶのに対し、北の天王社と呼ばれるようになった。

徳川将軍家の崇敬篤く、天正19年(1591)徳川家康より当社と南品川・貴布彌社(荏原神社)に一紙で御朱印領5石を寄進された。両社で2石5斗ずつ折半し、当社は北品川1石と戸越村1石5斗を領した。これについて貴布彌社との間で争論となっているが、当社の主張が認められている。

慶長5年(1600)家康は関ヶ原の合戦に際して戦勝を祈願、都の無形民俗文化財に指定されている太太神楽はこの時に奉納されたものという。凱旋後、奉賽として仮面及び神輿法被などの寄進があった。

同19年(1614)二代将軍秀忠が大坂に出陣する際にも吉例として祈祷を行い、太太神楽を奉納した。三代将軍家光もたびたび立ち寄り、四代将軍家綱の誕生や疱瘡の際には祈祷が行われたという。

寛永14年(1637)東海寺の開創にあたり、社地の内南の部分がその御用地となったため、替地として1,813坪を門前地として拝領した。この時、当社が東海寺の鬼門に当たることからその鎮守とされ、本社以下神主宅まで幕府によって修造されるのが例となった。

明治元年(1868)准勅祭社に列格、品川神社の旧称に復した。同5年(1872)郷社に列格。昭和7年(1932)には東京市の拡大を記念して報知新聞が主催した新東京八名勝の第3位に選ばれた。

現在の社殿は昭和39年の再建である。

例大祭は「北の天王祭」と呼ばれ、荏原神社の「南の天王祭」と合わせて「品川天王祭」と称する。品川の神輿は江戸の神輿と違い、神輿に取り付けられた締太鼓(大拍子と呼び、竹の撥で叩く)と篠笛の品川拍子に合わせ、荒々しく担ぐことが特徴。品川神社の大神輿には、徳川家康奉納の「天下一嘗めの御神面」が取り付けられる。また、おいらん道中も行われ、非常に賑やかである。

補足

品川神社の御祭神は天比理乃咩命、素盞雄命、宇賀之売命の三柱とされているが、『新編武蔵風土記稿』では稲荷(宇賀之売命)を主祭神として祇園(牛頭天王=素盞嗚尊)・貴布彌(高龗神)を相殿とし、さらに東照宮(徳川家康)を合わせ祀って品川大明神と総称するとある。つまり、現在の主祭神である天比理乃咩命の名がなく、現在の御祭神にない高龗神と徳川家康が祀られている。

貴布彌(高龗神)は南品川宿の枝郷・三ツ木の貴布彌社(西品川の貴船神社)の御祭神であろう。『新編武蔵風土記稿』によれば、三ツ木の貴布彌社の御神体は通常北品川の稲荷社(品川神社)に安置され、例祭の時に神輿で奉遷されたという。東照宮については『明治神社誌料』に「今祭神中東照宮を祀れりと覚しきなし」とあり、経緯はよくわからない。

天比理乃咩命については、『永享記』の「太田道灌の事」に「又神田の牛頭天王、洲崎大明神は、安房洲崎大明神と一体にて、武州、神奈川、品川、江戸、何れも此神を祝ひ奉る」とあり、また『江戸名勝志』には品川の牛頭天王として「永享年中、太田道灌品川の城内に勧請する所也。洲崎大明神或は品川大明神と云。北品川の鎮守也」とある。このあたりが根拠となっているのではないかと思われる。

写真帖

  • 一の鳥居

    一の鳥居

  • 大黒天像

    大黒天像

  • 浅間神社

    浅間神社

  • 富士塚

    富士塚(品川富士)

  • 御嶽神社

    御嶽神社

  • 神楽殿

    神楽殿

  • 祖霊社

    祖霊社

  • 手水舎

    手水舎

  • 阿那稲荷社上社

    阿那稲荷社上社

  • 阿那稲荷社下社

    阿那稲荷社下社

  • 拝殿

    拝殿

  • 本殿

    本殿

メモ

京浜急行新馬場駅のすぐ西、第一京浜をはさんだ小高い丘の上に鎮座する。境内、特に品川富士からは眺望がよく、品川海岸の自然や古い町並みが残っていた時代にはすばらしい眺めだっただろうと思われる。因みに映画『シン・ゴジラ』では避難する人々が当社の石段を登り、京急の高架をはさんで北上するゴジラを眺める場面があった。他にも一の鳥居(双龍鳥居)や御嶽塚、阿那稲荷社など見所が多い。

品川神社の概要

名称 品川神社
通称 北の天王社
旧称 品川大明神 稲荷社 北品川稲荷社
御祭神 天比理乃咩命〔あめのひりのめのみこと〕
素盞雄命〔すさのおのみこと〕
宇賀之売命〔うがのめのみこと〕
鎮座地 東京都品川区北品川三丁目7番地15号
創建年代 文治3年(1187)
社格等 元准勅祭社 旧郷社
例祭 6月7日に近い日曜日を中心とする土・日・月曜日(北の天王祭)
神事・行事 1月1日/歳旦祭
2月節分/節分祭
4月14日/阿那稲荷社春祭
4月15日後の日曜日/春の例祭(太々神楽)
6月30日/大祓
7月1日/浅間神社山開
10月4日/阿那稲荷社秋祭
11月23日/新嘗祭
12月31日/大祓
文化財 〈都無形民俗文化財〉太太神楽
巡拝 東京十社 東海七福神(大黒天)

交通アクセス

□新馬場駅(京浜急行)より徒歩2分

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