洲﨑神社(深川)

洲﨑神社

元禄年間(1688~1704)富岡八幡宮の東を埋め立ててできた洲崎の地に、護持院の隆光大僧正が弘法大師御作と伝えられる弁財天を祀ったことに始まる。風光明媚なことで知られ、初日の出や汐干狩、月見、船遊びなど四季折々の行楽で賑わった。明治の神仏分離により洲崎神社と改称した。
江東区の神社

正式名称 洲崎神社〔すさきじんじゃ〕
御祭神 市杵島比売命
社格等 旧村社
鎮座地 東京都江東区木場6-13-13 [Mapion|googlemap]
東都神社御朱印集
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御朱印

  • 洲崎神社の御朱印

    (1)

  • 洲崎神社の御朱印

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(1)平成17年拝受の御朱印。中央の朱印は「洲崎神社」、左下は「洲崎神社社務所之印」。

(2)令和3年拝受の御朱印。中央の朱印は「洲崎神社」、上は対い波に三つ鱗の神紋。右に「玉の輿たまちゃん」、左上に玉の輿たまちゃんのスタンプ、左下は「洲崎神社社務所之印」。

江戸時代の御朱印

  • 洲崎神社の御朱印

    (1)

(1)嘉永6年(1853)の納経。六十六部の納経帳のもの。揮毫は「奉納經 全部/朝日出世大辯財天女/深川洲崎/吉祥寺」。中央の朱印は「佛法僧寶」の三宝印、左下は「吉祥」。

※吉祥寺は洲崎弁財天社の別当寺。洲崎弁天を「朝日出世弁財天」とする資料は今のところ見たことがない。洲崎が日の出の名所であったことに因むのだろうか。

御由緒

江都名所「洲崎弁天境内」

江都名所『洲崎弁天境内』歌川広重(国会図書館デジタルコレクション)

御祭神

■市杵島比賣命

御神体は弘法大師御作と伝えられる弁才天の神像である。関東大震災や第二次大戦の戦災で社殿は焼失したが、幸いにして御神像は難を免れた。

由緒

江戸名所図会

『江戸名所図会』洲崎弁財天社(国会図書館デジタルコレクション)

洲﨑神社は、江戸時代には洲﨑弁天社と称していた。今は周辺の埋め立てが進んでかつての面影はないが、当時は海に面する景勝の地で、江戸を代表する行楽地として知られていた。江戸六弁天の一つに数えられる。

洲崎というのは、海中または河中に砂州が突き出して岬になったような地形のことである。洲崎弁天社は深川の洲崎の端に鎮座していた。

『本所深川絵図』

一般的に洲崎と呼ばれるところは自然にできた地形が多いが、洲崎弁天社が鎮座する深川の洲崎は、元禄年間(1688~1704)将軍の命により普請奉行・深津八郎右衛門正国が富岡八幡宮の東を埋め立ててできた土手である。

江戸時代の切絵図を見ると、富岡八幡宮の南東に細長い洲崎が描かれ、その東の端に「弁天・吉祥寺」とある。吉祥寺は洲崎弁天の別当・海潮山吉祥寺のことである。

元禄13年(1700)5代将軍綱吉が、生母・桂昌院の守り本尊で江戸城内紅葉山に祀られていた弁財天を安置するため、護持院の隆光大僧正に境内地1170坪を与え、この地に弁天社を建立させた。社殿の建立には深津正国が当たったともいう。

寛政3年(1791)台風による高潮で、洲崎一帯が大きな被害を受けた。家屋はことごとく押し流され、数多くの犠牲者が出た。洲崎弁天社も本堂が大破し、境内の濡仏も倒れてしまった。

その後、弁天社は再建されたが、洲崎の内側にあった久右衛門町、入船町、代賀町代地などを幕府が買い上げ、後の水害に備えて居住禁止とした。

東都名所洲崎弁才天境内全図

『東都名所 洲崎弁才天境内全図』安藤広重(国会図書館デジタルコレクション)

洲崎の地は風光明媚なことで知られていた。南側は遠浅の海岸で、春には江戸市中の人々が潮干狩りに訪れた。その賑わいの様子は『江戸名所図会』に「ことさら弥生の潮尽には、都下の貴賤袖を連ねて真砂の文蛤を捜り、または楼船を浮かべて妓婦の絃歌に興を催すもありて、もっとも春色を添ふるの一奇観たり」と記されている。

また日の出の名所としても有名で、正月には多くの人々が集まって初日の出を拝した。さらに月見、船遊びなど四季折々の行楽で賑わい、その様子は歌川広重の錦絵などにも描かれている。

江都名所「洲崎しほ干狩」

江都名所「洲﨑 しほ干狩」安藤広重(国会図書館デジタルコレクション)

江戸名所『洲崎はつ日の出』

江都名所「洲崎はつ日の出」安藤広重(国会図書館デジタルコレクション)

明治の神仏分離により洲崎神社と改称。吉祥寺は廃寺となった。明治5年(1872)村社に列格。

洲﨑神社(関東大震災前)

『深川区史』より関東大震災被災前の社殿(国会図書館デジタルコレクション)

大正12年(1923)関東大震災で社殿が焼失。仮殿で復興するが、昭和20年(1945)第二次大戦の戦災により再び焼失した。しかし、幸いにして弘法大師御作の御神体は二度とも難を免れた。

戦後、仮殿で再建された後、昭和43年(1968)現在の社殿が造営された。

波除碑(津波警告の碑)

波除碑

洲﨑地域一帯は寛政3年(1791)台風による高潮で甚大な被害を受けた。そこで幕府は洲崎弁天社の西側一帯を買い上げ、居住禁止とした。そして空き地の両端に波除碑を建立した。その一基が洲崎神社にあり、もう一基は平久橋のたもとに残る。

建立当時、碑は地上6尺(180cm)あり、鳥居の前に建てられていたようである。砂岩でできたいるため、破損が激しい。

大正13年(1924)東京府の史跡として仮指定、昭和17年(1942)仮指定解除。昭和27年(1952)史跡に指定、昭和30年(1955)旧跡。昭和56年(1981)は有形民俗文化財に種別変更されている。

於六稲荷神社

於六稲荷神社

文政寺社書上によれば、於六稲荷または久右衛門稲荷と呼ばれていたという。於六という女狐を祀る社で、元は久右衛門町に鎮座していたという。しかし寛政3年(1791)の水害の後、久右衛門町などが幕府の命で立ち退きとなったため、洲崎弁天の境内に遷座したという。

弁天社

弁天社

以前は社殿後方に池があり、その中の小島に弁天社が祀られていた。近年、池が埋め立てられて駐車場になり、弁天社は他の境内社の並びに遷されたようである。

神池

玉の輿たまちゃん

玉の輿たまちゃん

洲崎神社は5代将軍綱吉の生母・桂昌院(お玉の方)ゆかりの弁財天を祀る。桂昌院の出自については諸説あるが、一般には京都・西陣の八百屋の娘とされる。八百屋の娘から将軍の側室へと上り詰めた桂昌院は、「玉の輿」の語源・代名詞といわれる。

玉の輿たまちゃんは桂昌院の玉の輿に因み、令和元年(2019)に登場したキャラクターである。八百屋に因んでにんじんを持つ。牙は木場に因み、尻尾は破魔矢になっている。ポシェットには対い波に三つ鱗の神紋。

男女の縁、親子の縁、仕事の縁などさまざまな縁を結ぶマスコットとして企画されたという。

写真帖

  • 鳥居

    鳥居

  • 社号標

    社号標

  • 波除碑

    波除碑(津波警告の碑)

  • 名人竿忠碑

    名人竿忠碑

  • 手水舎

    手水舎

  • 玉の輿たまちゃん

    玉の輿たまちゃん

  • 弁天社

    弁天社

  • 豊川稲荷神社

    豊川稲荷神社

  • 於六稲荷神社

    於六稲荷神社

  • 狛犬

    狛犬

  • 拝殿

    拝殿

  • 社号額

    社号額

  • 本殿

    本殿

メモ

鎮座地は江戸時代から変わっていないが、明治以降の埋め立てで海から遠く離れてしまったため、景勝の地であったというかつての面影はまったく残っていない。近代の激しい変化を実感させられる。

洲崎神社の概要

名称 洲崎神社
通称・旧称 洲崎弁財天社 洲崎弁天 弁天社
御祭神 市杵島比売命〔いちきしまひめのみこと〕
鎮座地 東京都騎馬六丁目13番13号
創建年代 元禄13年(1700)
社格等 旧村社
例祭 8月3日
神事・行事 1月1日/元旦祭
2月節分/節分祭
旧2月上午の日/初午祭
11月酉の日/酉の市
12月31日/大祓式

交通アクセス

□東京メトロ東西線「木場駅」より徒歩約2分

江東区の神社
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