高輪神社

高輪神社

高輪神社は明応年間(1492~1501)の創建と伝えられる。高輪地域の総鎮守で、元は稲荷神社と称した。江戸時代は東海道に面して左右に太子堂と庚申堂が並び、広く信仰を集めていたという。現在、太子堂は境内社の高輪太子宮となり、庚申堂は猿田彦神社と改められた後、本社に合祀されている。昭和4年(1924)高輪神社と改称した。
港区の神社

正式名称 高輪神社〔たかなわじんじゃ〕
御祭神 宇迦御魂神 〈合祀〉誉田別命 猿田彦神
社格等 旧村社
鎮座地 東京都港区高輪2-14-18 [Mapion|googlemap]
東都神社御朱印集
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御朱印

  • 高輪神社の御朱印

平成17年拝受の御朱印。中央の朱印は「高輪神社」、左下は「高輪神社社務所之印」。

御由緒

高輪神社は高輪の総鎮守。元は稲荷社と称し、明応年間(1492~1501)の創建と伝えられる。旧別当は天台宗の旭曜山常照寺。

かつては東海道(現在の第一京浜国道)をはさんで海に面していたという。稲荷社の左右に庚申堂と太子堂が並んでおり、いずれも広く信仰を集めていた。その様子は『江戸名所図会』などに見ることができる。

庚申堂には四天王寺の豪範僧都の作と伝えられる青面金剛を祀っていたが、明治の神仏分離の後、猿田彦神を祀る境内社・猿田彦神社と改められた。現在は本殿に合祀されている。

太子堂は現在の境内社・太子宮で、明暦年間(1655~1658)に聖徳太子十六歳の尊像(太子御自作と伝えられる)を祀ったものとされる。

弘化2年(1845)の青山火事で、石鳥居・石門を除き社殿・旧記・宝物等ことごとく焼失した。安政7年(1860)本殿を再建。明治15年(1882)幣拝殿を改築する。

明治5年(1872)村社に列格、同10年(1877)現在の高輪三丁目に鎮座していた鵜来森八幡を合祀。昭和4年(1929)社号を高輪神社と改めた。

昭和55年(1980)現在の社殿が造営された。

写真帖

  • 鳥居

    鳥居

  • 太子宮

    太子宮

  • 石門の彫刻

    太子宮石門の彫刻(虎退治)

  • 石門の彫刻

    太子宮石門の彫刻(蛟退治)

  • 力石

    力石

  • 庚申塔

    庚申塔

  • 拝殿

    拝殿

  • 本殿

    本殿

メモ

弘化2年(1845)の大火で焼け残ったという石鳥居は寛文7年(1667)の寄進、太子宮石門は文政10年(1827)に江戸の石工組合から寄進されたものである。石門の左右には『蒙求』にある周処三害の故事に題材を取った見事なレリーフが施されている。
周処は中国の三国時代から西晋にかけての武将。若くして父親を失い、腕力は強いが礼節をわきまえず、土地の人々から南山に住む額の白い虎、長橋の下に住む蛟(水棲の龍。鰐か)とともに三害と呼ばれていた。周処はこれに憤慨し、虎と蛟を退治した。左に虎退治、右に蛟退治の様子が描かれている。

高輪神社の概要

名称 高輪神社
旧称 稲荷神社
御祭神 宇迦御魂神〔うかのみたまのかみ〕(稲荷大神)
〈合祀〉
誉田別命〔ほんだわけのみこと〕(応神天皇)
猿田彦神〔さるたひこのかみ〕(庚申様)
鎮座地 東京都港区高輪二丁目14番18号
創建年代 明応年間(1492~1501)
社格等 旧村社
例祭 9月10日
神事・行事 1月1日/歳旦祭
1月22日/鎮火祭
2月節分/節分祭
5月22日/高輪太子宮大祭
6月30日/大祓
12月31日/大祓

交通アクセス

□泉岳寺駅(都営浅草線)より徒歩5分
□品川駅(JR・京成)より徒歩10分

港区の神社
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