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(4)折り本式集印帖の登場

 

昔の集印帖

大正時代の半ば、御朱印の歴史における一大変革が起きた。折り本式の集印帖の登場である。俗に蛇腹式などと呼ばれるタイプで、現在でも御朱印帳といえばこのタイプをイメージするぐらい定着している。

大正から昭和昭和初期の旅行ブームと相まって、携行しやすい折本式の集印帖は急速に普及した。旅行の記念として寺社の朱印や観光地の記念スタンプを集めるという習慣が定着したようである。

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折り本式集印帖登場の背景

折り本式の集印帖が登場した理由は幾つか考えられるが、ここでは2点指摘しておきたい。

第一に考えられるのは、「神仏分離と旅行の自由化」で指摘した、庶民の旅行の自由化である。江戸時代には、庶民は信仰か湯治を名目にしなければ旅行が許されなかった。明治になって、旅行が自由化されたため、純粋な観光目的の旅行が可能になった。そのため、特に信仰的な動機がある人以外、納経帳を持って旅(巡礼)をするということはなくなったと思われる。

宝登山神社の絵はがき

宝登山神社の絵はがき(大正9年)
朱印(神璽)が押されている

一方で、観光旅行でも行き先の多くは神社仏閣であり、寺社に参詣すると印をもらうという習慣は根付いていた。そこで、納経帳のかわりに、はがきや絵はがきに押印してもらうという習慣ができた。しかし、はがき・絵はがきは手軽でも、数が増えると持ち運びや保管が不便だったと思われる。

明治の終わりには、携行や保管に便利な集印帖の需要はできていたのではないだろうか。

第二に指摘したいのは、明治以降の商品経済の発展により、帳面を自作する習慣がなくなったらしい点である。

江戸時代以前、納経帳は自作するものであった。紙を紙縒りで綴じた帳面を持参して記帳押印してもらったと思われるケースと、持参した紙に記帳押印してもらい、後で綴じたと思われるケースとがあるが、いずれにしても綴じて帳面にするのは自分がしていた。

明治になってもそれは続くが、次第に作りが粗雑になってくる。一方で、市販のものらしい和綴じの帳面や見られるようになる。大正の初めになると、帳簿の表紙と紐で綴じたものまで出現する。

明治27年の納経帳

四国八十八ヶ所納経帳(明治27年)
市販の和綴じ帳を使っている

帳簿を使った集印帖

帳簿を使った集印帖(大正14年~)

これは、商品経済の普及により、次第に帳面も市販のものを購入するという習慣が広まり、自分で紙を綴じるという習慣がなくなっていったためではないかと思われる。生活スタイルの変化により、商品としての集印帖の需要が形成されたのであろう。

なお、四国八十八ヶ所などの納経帳も、昭和になると市販の専用のものが主流となったようだ。厚紙の表紙のものが多いが、錦織など豪華な表紙のものも現れている。

折り本式集印帖

大正から昭和初期の集印帖については、「昔の集印帖」が非常に詳しい。

大正8年の集印帖

神社参拝記念帖(大正8年)

筆者の手許にある集印帖のうち、一番古いのは大正8年のものである。「昔の集印帖」に掲載されているものには大正6年のものがあるが、集印帖の登場時期については大まかに「大正の半ば」といってよいだろう。

折り本式の集印帖が登場したといっても、まったく新しいものを作り出したわけではない。江戸時代から文人画家の間で用いられていた折本式の画帖を集印帖に転用したのである。

言ってみればタイトルを「集印帖」としただけのようなものであるが、旅先でスケッチをするより、朱印やスタンプを集めるほうが手軽で誰にでも楽しめる。売り上げも伸びたはずで、頭のいい人がいたものである。

画帖からの転用とはいえ、かなり早い頃から集印向けの改良が行われている。

最初期の集印帖は、紙は薄く、しかも一重だった(『昔の集印帖』によれば、「折帖一枚」というらしい)。

折状一枚

ページ数は多いが、使えるのは片面のみ。しかも頁の途中に継ぎ目があったりして不便である。画帖をそのまま集印帖としたためであろう。

紀三井寺・青岸渡寺

折帖一枚の集印帖、紀三井寺(大正8年・左)と青岸渡寺(大正11年)
紀三井寺の頁に継ぎ目がある。

大正10年代に入ると、「折帖二枚重ね」の集印帖が登場する。

「折帖二枚重ね」とは、二つ折りの紙を多数用意し、それを裏表で交互に重ねたものである。山折りの部分が継ぎ目になるので、頁の途中に継ぎ目が来るということがない。折帖一枚に比べて頁数は少なくなるが、紙を厚くすることにより、裏表両面を使えるようにしている。

折帖二枚重ね

折帖二枚重ねの集印帖は次第に折帖一枚の集印帖を駆逐し、昭和に入ってしばらくすると、ほぼ完全に二枚重ねの集印帖で占められるようになる。現在の御朱印帳もすべてこの形式である。

朱印のみのタイプが主流に

折り本式集印帖の登場により、御朱印の形式にも大きな変化が起きた。墨書をせず、朱印のみ押すという形が主流になったのである。

気比神宮・金崎宮の御朱印

気比神宮・金崎宮の御朱印(大正10年頃)

「御朱印」は、その名の通り中央に押す朱印が構成要素の中心だと思われている。現在でも朱印のみ、あるいは朱印に日付のみという神社も少なくない(伊勢神宮など)。

しかし、「納経帳の登場と広がり」で書いたように、初期の納経帳は中央に朱印を押さないのが主流であった。幕末には朱印を押すのが一般的になるが、それでも明治の頃まで伝統として押さないという寺院が残っていた。

朱印のみというのは、もっとも早い時期のものでは19世紀初頭の秩父三十四ヶ所の納経帳で見ることができるが、小寺院の多い秩父霊場ならではの極めて例外的なものと考えられる。

筆者が所有している集印帖を見ると、もっとも古い大正8年のものは墨書がある。しかし、同時期のものと思われる集印帖で、同じ神社であっても墨書がないという例がある(朱印のみなので、正確な年代がわからない)。そして神社で墨書なし朱印のみが大半となり、寺院でも墨書のない例が次第に増えていく。

昔の御朱印は朱印だけだったというような説も、この時代の状況が元になっているのだろう。

朱印のみになった理由

墨書をせず、朱印のみになった理由は3点ほど考えられる。

一番目には、従来の納経帳に比べてサイズが小さいため、文字が書きにくいという理由が考えられる。逆に、サイズが小さいために朱印だけでも十分スペースが埋まり、見た目の問題がないという面もあっただろう。当時は9cm×12cmの小型の集印帖も結構使われていた。

東西本願寺・石清水八幡宮

東本願寺・西本願寺・石清水八幡宮(昭和6年)

二番目には、信仰的な動機に基づく納経帳に対し、観光的な要素の強い集印帖は略式のもの、あるいは単なる参拝記念と考えられた可能性がある。

集印帖で朱印のみの御朱印が主流になった時代でも、大判の納経帳(もっぱら霊場の巡礼のために使われるようになった)は必ず墨書がある。また、折本式の集印帖でも、例えば西国三十三所の納経帳として作られているものは揮毫(スタンプであることが多いが)が入っている。

一方、筆者の手許に『神社仏閣順拝印章帖』という、明治41年(1908)の順拝帳がある。鎌倉と近郊の寺社12ヶ所を参拝したものだが、「印章帖」というタイトルを見てもわかるとおり、集印帖の先駆けのようなものである。

円覚寺・建長寺

円覚寺・建長寺(明治41年)

参拝した寺社12ヶ所のうち、墨書があるのは4ヶ所、朱印のみが8ヶ所である。明治末の時点で鎌倉では朱印のみという形があったことが確認できる。

さらに、墨書のある4ヶ所(高徳院=鎌倉大仏、極楽寺、満福寺、称名寺=金沢文庫)も、1ヶ所に「参拝」の文字が入るだけで、「奉納経」「奉拝」といった文字がない。

鎌倉が東京近郊の代表的な観光地であることを考えると、信仰的な動機ではなく、観光目的の参拝だったのだろう。これに墨書がない、あるいは「奉納経」「奉拝」といった文字がないということを見ると、もらう側と授与する側に観光記念目的という共通認識があり、そういう場合は墨書を省略することがあるという了解ができていたのではないかと考えられるのである。

三番目は二番とも関係するのだが、はがき・絵はがきへの押印という習慣が広がっていたということである。

はがきや絵はがきに押印する場合、当然ながら墨書はない。記念スタンプ的な意味で押印のみをするという習慣ができていたため、観光記念的な意味であれば、墨書しないということが当たり前とされていた可能性が高い。

墨書が完全になくなるわけではないのを見ると、特に希望する人に対しては墨書きをしたのではないだろうか。筆者の手許にある大正8年の集印帖に墨書があるのも、初期のものだからではなく、所有者が墨書を希望したからなのかもしれない。

そうなると、朱印のみという形式は折り本式集印帖とは直接的な関係がないという可能性も出てくるのだが、それについては今後検討していきたい。

御朱印の歴史
従来、御朱印は伝統宗教において明確な位置づけがされず、学術的な研究の対象にもならなかったため、御朱印の歴史については想像で語られてきました。古い納経帳や集印帖に基づき、実際の御朱印の歴史について考察します。
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