御朱印の歴史

下鴨神社・頂法寺の納経

享保12年(1727)下鴨神社と頂法寺の納経

御朱印の歴史を考える上では、まず何を持って「御朱印」とするかが問題となります。なぜなら、御朱印の起源が納経帳にあることは明らかですが、江戸時代の納経帳、特に初期のものは朱印を押していないものも多いからです。

ここでは「御朱印」を「納経」「納経印」「御判」と呼ばれるものや浄土真宗の順拝帳を含めた総称として定義し、「納経帳」の登場をもって御朱印の始まりとします。

1.御朱印の起源-六十六部

2.納経帳の登場と広がり

3.旅行の自由化と記念スタンプ

4.折本式集印帖の登場

5.スタンプブームと御朱印

6.昭和10年代から平成まで

7.浄土真宗の御朱印

8.日蓮宗の御首題

御朱印の歴史について

従来、御朱印は寺社参詣において広く浸透した習慣ではありましたが、伝統仏教や神道において明確な位置づけがされたことはなく、学術的な研究の対象にもなっていませんでした。

そのため、御朱印についての説明も現代の常識や俗説に基づいたものが多かったのですが、それを検証することができず、また検証しようという人もいなかったわけです。

例えば御朱印=納経帳の起源が六十六部廻国巡礼聖にあることなどは、六十六部や四国八十八ヶ所の研究などでは自明のこととして扱われていますし、ネット上の匿名掲示板などでそういう書き込みを見ることはありましたが、それをまとまった形で提示した資料やサイトはなかったように思います。

特に従来の御朱印本では、一般に流布している俗説に印鑑の歴史などを添えるなどして「御朱印の歴史」と称しているものが大半で、六十六部について触れているものは皆無だったと思います。

当サイト附属のブログに御朱印の起源に関する考察を掲載した後、JTBパブリッシングの『御朱印案内』がこの説を取り上げたこともあってか、ぼつぼつと六十六部との関連についての記述も見られるようになりましたが、まだ従来の俗説の類で説明している書籍も見られます。

「御朱印の起源には諸説あって、何が正しいかはわからない」などと書いている御朱印関連のサイトもあったりするのですが、それは単にその諸説なるものが御朱印そのものを調べておらず、現代の常識に基づく想像に依っているためです。江戸時代以来の納経帳や集印帖、また六十六部や四国八十八ヶ所に関わる研究を調べると、御朱印の歴史というのはかなり明確に浮かび上がってきます。

私が江戸時代の納経帳に関心を持ったのは、江戸時代以前の四国八十八ヶ所がどのようなものであったかを知りたかったからですが、それらを調べていくうちに、現在の御朱印に関する通説がかなり実態とは違っているということに気づきました。

その最たるものは「御朱印は宝印(朱印)を押すことから始まったのではない」ということでした。むしろ当初は宝印を押さないのが主流で、装飾的な意味で押された宝印が次第に中心的な意味あいを持つようになった流れがわかってきたのです。

これに関連して、寺社の印が「御朱印」と呼ばれるようになったのは昭和一桁の後半らしいこと、その時代は空前絶後のスタンプブーム(あるいは御朱印ブーム)で、朱印のみ押して墨書はしないのが主流だったこともわかりました。つまり御朱印の始まりの形として想定されていた形が浸透していた時代があったということで、最初は朱印を押すだけだったという俗説もあながち根拠がないとは言い切れないわけです(ただし、御朱印の起源としては間違っていますが)。

さらに、かつては「浄土真宗は伝統的に御朱印を授与しない」などということが言われていましたが、これもまったく根拠のない間違い(意図的な嘘?)だということもわかりました。浄土真宗は江戸時代から積極的に御朱印(その原型を含む)を授与していたこと、浄土真宗の御朱印は他宗の御朱印とは起源が違うことを明白に示す資料が存在していたからです。

このことをブログに掲載したところ、次第に浄土真宗で御朱印を授与しないのは伝統によるものではないという認識が広まり、最近では「伝統的に授与しない」という言葉を見かけることは少なくなりました。かつて普通に御朱印を授与した時代を知っているのに、周囲の同調圧力で黙っていた人たちが、授与していた事実を語るようになったことも大きいでしょうが、当サイト・ブログの影響もあったのではないかと自負しています。

江戸時代以来の納経帳・集印帖などを調べてわかってきた御朱印の歴史について、現時点での知見に基づいてまとめました。ただし新しい資料が見つかれば修正することもあります。

なお、この内容をまとめるに当たっては、大正~昭和戦前の集印帖を多数掲載しているサイト「昔の集印帖」と運営者のおかもとさんから多くのご教示をいただきました。特にお礼を申し上げます。

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