乃木神社(東京)

乃木神社

正式名称 乃木神社(のぎじんじゃ)
御祭神 乃木希典命 乃木静子命
社格等 旧府社 別表神社
鎮座地 東京都港区赤坂8-11-27 [Mapion|googlemap]
公式サイト http://www.nogijinja.or.jp/

【由緒概要】
乃木神社は乃木希典大将と静子夫人を祀り、赤坂の旧乃木邸に隣接して鎮座する。乃木夫妻は明治天皇の御大葬の夜、自宅にて自刃、殉死した。これに感銘を受けた東京市長の阪谷芳郎は有志に諮って中央乃木会を設立、乃木邸内の小社に夫妻の御霊を祀った。大正8年(1819)神社創立の許可があり、同12年(1923)鎮座祭が執り行われた。

スポンサーリンク
サイト内検索
広告レクタングル(大)

乃木神社の御朱印

  • 乃木神社(赤坂)の御朱印

平成17年拝受の御朱印。朱印は「東京乃木神社」。

昔の御朱印

  • 乃木神社の御朱印

    (1)

  • 乃木神社の御朱印

    (2)

  • 乃木神社の御朱印

    (3)

(1)昭和4年の御朱印。上の朱印は「乃木神社」、下は「東京赤坂鎮座」。

(2)昭和8年頃の御朱印。朱印は「東京 赤坂 乃木神社」。

(3)昭和11年頃の御朱印。朱印は「東京乃木神社」で、現在のものとほぼ同じようである。

乃木神社について

名称 乃木神社
御祭神 乃木希典命〔のぎまれすけのみこと〕
乃木静子命〔のぎしずこのみこと〕
鎮座地 東京都港区赤坂八丁目11番27号
創建年代 大正12年(1923)11月1日
社格等 旧府社 別表神社
例祭 9月13日
神事・行事 1月1日/歳旦祭
1月3日/元始祭
1月7日/昭和天皇祭
1月14日/凱旋記念祭
2月3日/節分祭・豆撒き行事
2月11日/紀元祭
2月17日/祈年祭
2月/赤坂王子稲荷神社祭
3月21日/春季皇霊祭
4月3日/神武天皇祭遙拝式
4月13日/崇敬者大祭
5月/のぎびと大祭
6月30日/水無月大祓式
7月30日/明治天皇祭
10月/管弦祭
10月17日/神嘗祭当日祭
10月31日/正松神社祭・祖霊舎祭
11月1日/御鎮座記念祭
11月3日/明治祭
11月23日/新嘗祭
12月31日/師走大祓式・除夜祭・古神札焼納祭

御由緒

赤坂に鎮座する乃木神社は、明治天皇の崩御に殉じて自刃した乃木希典将軍と静子夫人を祀る。乃木将軍を祀る乃木神社は将軍縁の各地にあるが、当社は乃木邸に隣接して創建され、境内には旧乃木邸のほか、水師営のナツメや乃木家の祖霊舎などがある。

陸軍大将・乃木希典は嘉永2年(1849)長府藩士・乃木希次の長男として生まれた。16歳の時、学者を志して玉木文之進(松下村塾の創始者で吉田松陰の伯父)の下に出奔した。元治2年(1864)友人らと報国隊を組織、初陣は慶応元年(1865)の第二次長州征伐であった。

明治4年(1871)陸軍少佐に任官、希典と改名した。同8年(1875)小倉に赴任、翌9年(1875)秋月の乱を鎮圧した。しかし、その直後に萩の乱が起こり、実弟で玉木文之進の養子となっていた正誼が反乱軍に参加して戦死、文之進は教え子が多数反乱に加わった責任をとるために自決している。

同10年(1977)西南戦争に従軍中、連隊旗を敵に奪われてしまった。乃木はこれを恥じ、厳しい処罰を求めたが不問とされた。しかし自らを許すことができなかった乃木は、自害を図ったり、野戦病院を抜け出して戦地に赴くなど、自らを罰するかの如く戦いに向かった。

西南戦争の後、豪遊を繰り返して気を紛らわす乃木を心配した周囲の勧めで、明治11年(1978)薩摩藩士・湯地定之の娘・静子と結婚。大佐、少々と昇進し、同19年(1986)にはドイツに留学。日清戦争では歩兵第一旅団長として活躍した。

明治37年(1904)日露戦争には第三軍の司令官として出征、大将に昇進し、旅順要塞の攻略に当たった。旅順要塞の攻略は困難を極め、多くの戦死者を出した。乃木の二男・保典もここで戦死している。前年には長男の勝典も戦死していたため、国民も大変同情し、戦後に「一人息子と泣いてはすまぬ、二人亡くした人もある」という俗謡が流行るほどであった。

明治38年(1905)1月2日、旅順要塞が陥落、同5日、水師営で要塞司令官ステッセルと会見した。乃木は明治天皇の命を受けてステッセル将軍の名誉を重んじ、この様子は文部省唱歌「水師営の会見」にも歌われた。その後、第三軍は奉天会戦にも参加している。

戦後、日本国民は乃木を英雄・凱旋将軍として迎えたが、乃木自身は多くの部下を戦死させたことに対する自責の念に満ちていた。明治天皇の御前で復命書を奉読した際には「自分が至らず陛下の忠良なる将校・兵士に多くの死傷者を出してしまった。この上はただ割腹して陛下に謝罪したい」と述べて退出しようとした。これに対して明治天皇は「乃木の苦しい心境は理解したが、今は死ぬべき時ではない。どうしても死ぬというのであれば、朕が世を去った後にせよ」という趣旨の御沙汰があったという。

その後、乃木は各地の遺族や傷病兵を慰問。忠魂碑や戦没者の墓碑の揮毫を依頼されると進んで筆を執ったという。ことに巣鴨の廃兵院(戦争で負傷し、障害を持った人のための施設)への慰問は欠かさなかったという。また、明治天皇の勅命により学習院の院長に就任し、昭和天皇の教育にも当たった。後に昭和天皇は、ご自身の人格形成にもっとも影響のあった人物として乃木の名を挙げている。

大正元年(1912)9月13日、明治天皇の大喪の礼の日の夜、乃木夫妻は明治天皇に殉じて自刃。遺書には西南戦争で連隊旗を奪われたことに対する償いである旨が記されていた。これは当時の多くの人々に衝撃と感動を与えた。

同年9月18日、約20万人の見守る中で乃木夫妻の葬儀は執り行われた。赤坂区議会は、当時「幽霊坂」と呼ばれていた坂を「乃木坂」と改名することを決議した。

同2年(1913)、東京市長の阪谷芳郎男爵は乃木将軍を敬慕する同感の人々に諮って中央乃木会を設立、乃木邸内の小社に夫妻の御霊を祀った。大正5年(1916)正二位を追贈。同8年に神社創立が許可された。明治神宮の鎮座を期し、乃木邸の隣地に造営を開始。同12年(1923)11月1日に鎮座祭を執り行った。翌13年(1924)府社に列せられる。

昭和20年(1945)5月、米軍の空襲により社殿等が全焼。同37年(1962)御祭神五十年祭に合わせて本殿・幣殿・拝殿が再建された。

写真帖

  • 鳥居

    鳥居

  • 旧乃木邸

    旧乃木邸

  • 乃木大将夫妻瘞血之處

    乃木大将夫妻瘞血之處

  • 教育の碑

    教育の碑

  • 赤坂王子稲荷神社

    赤坂王子稲荷神社

  • 拝殿

    拝殿

  • 正松神社

    正松神社

メモ

神社の隣には乃木邸が保存・公開されている。そのそばには乃木家祖霊社や「乃木大将夫妻瘞血之處」がある。「乃木大将夫妻瘞血之處」は、殉死の際に夫妻の血がついたものを埋めた場所である。
境内にある「教育の碑」には、乃木将軍が学習院の院長に就任した頃、生徒心得のために賜った御製「いさをある人ををしえの親にして おほしたてなむやまとなでしこ」が刻まれている。
摂社の正松神社は、松下村塾の創始者で乃木将軍が師事した玉木文之進と、その甥で(乃木将軍には兄弟子になる)松下村塾を受け継いで子弟の教育に当たった吉田松陰を祀る。昭和38年(1963)、社殿の復興を機に長州萩の松陰神社より御分霊を勧請した。
また、末社の赤坂王子稲荷神社は、昭和37年(1962)同じく社殿の復興に際し、乃木将軍夫妻が篤く崇敬していた王子稲荷神社を勧請したものである。

ところで、司馬遼太郎の『坂の上の雲』などによって乃木希典=愚将というイメージが作られ、筆者などもその影響を受けた口なのだが、福井雄三氏の『「坂の上の雲」に隠された歴史の真実』を読んで大いに認識を改めさせられた。
フィクションを史実と錯覚することは危険であるが、司馬氏にそうさせる意図がなかったとは言い切れないのではなかろうか。一人の人間に対する評価を、史実ではないフィクションによって(例えば『坂の上の雲』では児玉源太郎が指揮して203高地を攻略したことになっているが=筆者もそれを読んでそう信じた=これは司馬氏の小説が初出で、それを裏付ける一次資料はないという)貶めるというのは、その人の尊厳に対する冒涜ではないだろうか。司馬氏にとっては創作かも知れないが、それが史実のように扱われても訂正していなかったことにおいて批判されるべきだろう。忘れられがちであった児玉源太郎を広く知らしめた点は評価すべきとは思うが。


※掲載の情報は最新のものとは限りません。ご自身で確認をお願いします。

スポンサーリンク
サイト内検索
広告レクタングル(大)
サイト内検索
広告レクタングル(大)

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする