松陰神社は、幕末の勤王家・教育者として名高い吉田松陰を祀る。小塚原で処刑された松陰の遺体は小塚原回向院に葬られたが、後に門人らの手で荏原郡若林村(世田谷区若林)の通称・大夫山に改葬された。明治15年(1882)公爵・毛利元徳や門人・縁故者が墓所のそばに松陰を祀る神社を創建した。近年は学問の神としても崇敬されている。
正式名称 | 松陰神社〔しょういんじんじゃ〕 |
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御祭神 | 吉田寅次郎藤原矩方命 |
社格等 | 旧府社 |
鎮座地 | 東京都世田谷区若林4-35-1 [Mapion|googlemap] |
公式サイト | http://www.shoinjinja.org/ |
御朱印
(1)平成17年拝受の御朱印。中央の朱印はは「松陰神社」、下は「東京鎮座」。右上は「五瓜に卍」の神紋をアレンジして五瓜に「参拝記念」。
(2)平成28年拝受、例大祭限定の御朱印。中央の朱印は「松陰神社」、下は「東京鎮座」で通常のものと同じ。例大祭限定で、右に緑で「松陰神社例大祭奉拝」、右下に吉田松陰のシルエット。
昔の御朱印
(1)昭和8年頃の御朱印。上の朱印は「府社松陰神社」、下は「東京鎮座」。
御由緒
松陰神社は、幕末の勤王家・思想家・教育者であり、明治維新の精神的指導者として名高い吉田松陰を祀る。
吉田松陰は名を矩方〔のりかた〕、通称寅次郎という。長州萩藩士・杉常道の次男として生まれ、山鹿流兵法師範の吉田家を継ぐ。安政元年(1854)、ペリー来航に際して海外渡航を計画するが失敗、自首して伝馬町の獄に下る。萩の野山獄に移された後、杉家で預かりの身となる。
安政4年(1857)、杉家宅地内の小屋において、叔父・玉木文之進が起こした松下村塾を主宰、高杉晋作・久坂玄瑞・伊藤博文・山県有朋ほか数多くの人材を育てる。翌5年10月27日、安政の大獄に連座して小塚原で刑死した。
当初、遺体は小塚原回向院に埋葬されたが、文久3年(1863)、門人の高杉晋作、伊藤博文らにより毛利氏の持地である荏原郡若林村の通称・大夫山に改葬された。その後、徳川勢によって一度破壊されるが、明治元年(1868)木戸孝允が修復した。
明治15年(1882)、公爵・毛利元徳や門人等により大夫山墓域のそばに松陰を祀る社が建立され、11月21日に鎮座祭を挙行した(安政5年10月27日は陽暦11月21日に当たる)。
同21年(1888)、吉田松陰は靖國神社に合祀され、翌22年には特旨をもって正四位が追贈された。
昭和3年(1928)現社殿が竣工。同7年、府社に昇格。
近年は松陰の教育者としての評価から、学問の神としても信仰を集めている。
なお、墓域には吉田松陰をはじめ、頼三樹三郎、小林民部、来原良蔵、福原乙之進、綿貫次郎輔、中谷正亮その他烈士の墓が並ぶ。
写真帖
メモ
東急世田谷線松陰神社前駅から北に進むと、松陰神社の鳥居が見えてくる。参道はまっすぐ社殿へと続く。拝殿の前には公爵・毛利元昭、伊藤博文、山県有朋をはじめ、門下生や縁故者の寄進した石灯籠が並ぶ。社殿右側にある松下村塾は、萩の松陰神社に保存されている松下村塾を模したものである。
大夫山墓域の吉田松陰をはじめとする墓石はごく小さいものである。墓域内には頼三樹三郎・小林民部らの墓も並ぶ。墓域入口に立つ鳥居は、明治元年(1618)木戸孝允が墓所を修復した際に奉納したものである。
松陰神社の概要
名称 | 松陰神社 |
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御祭神 | 吉田寅次郎藤原矩方命〔よしだとらじろう ふじわらののりかたのみこと〕 |
鎮座地 | 東京都世田谷区若林四丁目35番1号 |
創建年代 | 明治15年(1882)11月21日 |
社格等 | 旧府社 |
例祭 | 4月27日/10月27日 |
神事・行事 | 1月1日/歳旦祭 2月11日/節分祭 2月21日/祈年祭 3月春分/慰霊祭 6月30日/大祓 9月秋分/慰霊祭 11月29日/新嘗祭 12月30日/大祓 12月31日/除夜祭 ※『平成「祭」データ』による |
交通アクセス
□東急世田谷線「松陰神社前駅」より徒歩約3分