大御和神社は徳島市西部の国府町に鎮座し、地元では「府中の宮〔こうのみや〕」と通称される。江戸時代以前は印鑰大明神と称し、明治3年(1870)旧名の大御和神社に復した。このあたりは阿波国衙の跡地と推定されており、当社を阿波国の総社とする説もある。
正式名称 | 大御和神社〔おおみわじんじゃ〕 |
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御祭神 | 大己貴命 |
社格等 | 式内社 旧県社 阿波国総社(論) |
鎮座地 | 徳島県徳島市国府町府中644 [Mapion|googlemap] |
紹介サイト | https://oomiwa-jinjya.jp/ |
御朱印
(1)平成27年拝受の御朱印。朱印は「大御和神社印」。揮毫は「式内社/大御和神社」。
※御朱印は井上八幡神社で拝受できる。
御由緒
御祭神
■大己貴命
境内の由緒書や明治神社誌料等は大己貴命一柱とするが、『平成「祭」データ』は主祭神は大己貴神で、大山咋神を合祀するとしている。
境内由緒書には「大己貴命(大国主命)はこの国土を拓き農業、工業、産業すべての開発、家内安全、治病、交通、縁結びなど世の中の幸福を増進することを計られた、人間生活の守護神として尊崇されている」とある。
由緒
大御和神社が鎮座する国府町府中・観音寺地区は阿波国の国衙跡と推定されている。地元では「府中の宮〔こうのみや〕」と通称される。『延喜式神名帳』所載の大御和神社に比定される古社である。
古代から中世にかけて国司の印と国衙の倉の鍵(鑰)を保管し、安全祈願をしたと伝えられることから、江戸時代以前は印鑰〔いんやく〕大明神と称されていた。当社の社紋も鍵を組み合わせた「鍵の立合」である。
創建年代は不詳だが、『阿波志』に、大宝2年(702)国司が初めて印と鑰を納め、これによって「印鑰」と称するようになったという伝承が紹介されている。国府の鎮守として歴代国司の崇敬が篤かったと伝えられる。
一説には当社を阿波国の総社とするが、これには賛否があり、当社の500mほど西方にある観音寺(四国16番札所)境内に鎮座する八幡総社大明神を当てる説もある。
江戸時代には名方郡十二社の一に数えられ、大坊と称された千福寺が別当であった。慶安2年(1649)には現在の本殿が造営されている。
明治3年(1870)旧名の大御和神社に復した。明治5年(1872)郷社に列格、昭和11年(1936)県社に昇格した。
境内社
■江之島神社…市杵島姫命
■若宮神社…瓊瓊杵命
■稲荷神社…宇賀魂命
※『平成「祭」データ』には上記三社の他、秋葉・蛭子・瑜伽神社、野・八坂神社、秋葉・八坂神社、愛宕・稲荷神社などの名があるのだが、それらしい社殿はわからなかった。
写真帖
境内正面の大鳥居。
南参道の大鳥居。
手水舎。
境内。
拝殿前の石燈籠。「国府宮」の文字が見える。
拝殿前の虎の像。
狛犬。
重厚な印象の拝殿。
拝殿、斜め前より。
拝殿向拝の彫刻。
破風の金具にあしらわれた神紋「鍵の立合」。印鑰大明神の由緒を感じさせる。
瓦にあしらわれた神紋「鍵の立合」。
入母屋造の本殿。
メモ
四国16番観音寺から四国17番井戸寺へ向かう遍路道の途中にある。なので、初めて参拝したのは平成元年の四国巡拝時。立派な神社だなあという印象が残っている。2度目の参拝も、平成18年の2度目の四国八十八ヶ所参拝時。とはいえ、御朱印の有無が分からなかったため、平成27年に3度目の参拝で拝受した。
令和2年(2020)宮司・総代会から境内の8割を売却し、社殿を新築、維持するという通知が出され、全国ニュースにもなった。これに対して大御和神社(府中の宮)を守る会が結成され、全国からの署名を集めたこともあり、計画は白紙撤回された。この件をきっかけに崇敬会が活発な活動を行うようになっており、地域の神社を護持していく活動のモデルケースとして注目される。
大御和神社の概要
名称 | 大御和神社 |
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通称 | 府中宮(国府宮)〔こうのみや〕 |
旧称 | 印鑰大明神 |
御祭神 | 大己貴神〔おおなむちのかみ〕 〈合祀〉 大山咋神〔おおやまくいのかみ〕 |
鎮座地 | 徳島県徳島市国府町府中644番地 |
創建年代 | 不詳 |
社格等 | 式内社 旧県社 |
延喜式 | 阿波國名方郡 大御和神社 |
例祭 | 10月19日 |
神事・行事 | 5月1日/祈年・太々神楽祭 7月31日/大祓祭 ※『平成「祭」データ』による |
交通アクセス
□JR線徳島線「府中(こう)駅」より徒歩約10分
□JR高徳線・徳島線「徳島駅」よりバス
■神山高校前・刑務所前行き「府中宮前」下車すぐ
更新履歴
2022.11.24.公開
2024.06.19.一部修正
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