江戸三大閻魔

江戸三大閻魔

江戸時代から明治・大正にかけて閻魔詣りが非常に盛んで、1月16日・7月16日には各地の閻魔堂では縁日が立った。江戸にも多くの閻魔堂があったが、中でも浅草蔵前の華徳院(杉並区松ノ木3に移転)、下谷坂本の善養寺(豊島区西巣鴨4に移転)、四谷内藤新宿(新宿区新宿2)の太宗寺の閻魔大王は江戸三大閻魔と呼ばれ、広く信仰を集めた。

江戸三大閻魔の寺院

華徳院閻魔像 称光山 華徳院
東京都杉並区松ノ木3
善養寺閻魔像 薬王山 善養寺
東京都豊島区西巣鴨4
太宗寺閻魔像 霞関山 太宗寺
東京都新宿新宿2

江戸三大閻魔の御朱印

  • 華徳院の御朱印

    称光山 華徳院

  • 善養寺の御朱印

    薬王山 善養寺

  • 太宗寺の御朱印

    霞関山 太宗寺

 江戸三大閻魔について

閻魔大王は、もともとサンスクリット語でヤマ、あるいはヤマラージャという。『リグ・ヴェーダ』では人類の始祖とされ、最初の死者となったために死者の国の王になったとされる。これが仏教に取り入れられて地獄の主とされ、人が死ぬと閻魔王によって生前の行いの善悪を裁かれると考えられるようになった。

中国に入ると、中国における死後の世界の支配者である太山府君の信仰と結びつき、十王信仰が成立した。死後、閻魔王(閻魔大王)や泰山王(太山府君)など十人の裁判官によって裁かれるという信仰で、中国の官吏風の道服を身にまとい、冠を被って笏を持つ姿は、これに由来する。

日本においては地蔵菩薩が本地であるとされる。源信の『往生要集』などの影響により、平安時代以降、広く信仰されるようになった。「嘘をつくと閻魔様に舌を抜かれる」等、悪事を戒める際にはよくその名が出される。奪衣婆や書記官の司録・司命を伴った形で表されることも多い。

江戸時代から明治・大正にかけて閻魔参りが盛んに行われるようになった。1月16日と7月16日の藪入りは閻魔大王の斎日とされ、各地の閻魔堂では縁日が立った。

天保9年の『東都歳時記』には華徳院(長延寺とある)・善養寺・太宗寺を含む100ヶ寺社の閻魔が挙げられている。なぜ、その中でこの3ヶ寺が三大閻魔として選ばれたかについては不明とされている。

しかし、同書を見ると江戸三大閻魔に数えられる3ヶ寺のみ「丈六」と書かれているので、閻魔像の大きさから「三大閻魔」と呼ばれたと考えて間違いなさそうである。丈六は高さ1丈6尺(約4.85m)の仏像のことで、坐像の場合は半分の8尺(約2.43m)とされる。因みに太宗寺の閻魔像は1丈6尺どころか1丈8尺(約5.5m)もある。

東都歳時記

『東都歳時記』(天保9年)

国会図書館デジタルコレクション

なお、これらの100ヶ寺社の中には、深川の法乗院(深川ゑんま)や小石川の源覚寺(こんにゃく閻魔)など、現在も閻魔信仰で有名だったり、閻魔大王の御朱印をいただける寺院が含まれている。