御陵印(陵墓印)とは

御陵印

「御陵印」は歴代天皇の御陵の参拝記念印である。かつては歴代外天皇や皇后の陵や皇族の墓にも印があり、皇族の墓の印は「墓印」と呼ばれていたため、両者の総称である「陵墓印」を使う人もいる。

現在は日向三代の御陵である神代三陵と歴代天皇の御陵にしか印がなく、宮内庁の公式サイトにも「陵印」とあるので、当サイトでも「陵印」「御陵印」を正式名称として用いることにする。ただし皇族の墓の印を指す場合には「墓印」、陵印と墓印を総称する場合には「陵墓印」を使う。

ネット上では「歴代天皇の朱印」という表現も見られるが、各印は歴代天皇に対応しているわけではなく、御陵に対応して作られているので不適切な表現とすべきだろう。

例えば合葬陵や同一兆域に複数の御陵がある場合、御陵印は一つにまとめられている。そのため、神武天皇から昭和天皇までの歴代天皇は124代122人だが、御陵印の数は93印である(神代三陵の3印を除く)。

また、例えば第68代後一条天皇を葬る菩提樹院陵には、第一皇女で後冷泉天皇の中宮となった章子内親王も合葬されているため、御陵印の印文は「後一条天皇 後冷泉天皇皇后 菩提樹院陵」となっており、同様の例は他にもある。よって「歴代天皇の朱印」とするのは誤りで、あくまで「歴代天皇陵(御陵)の印」である。

御陵印は資料が乏しくわからないことが多いのだが、現時点でわかっている情報を中心としてまとめてみたいと思う。記述に当たっては「陵墓 陵印 掲示板」での議論を参考にさせていただいている。特に感謝を述べておきたい。

スポンサーリンク
サイト内検索
広告レクタングル(大)




御陵(陵墓)とは

明治天皇伏見桃山陵

明治天皇伏見桃山陵

皇室典範27条には「天皇、皇后、太皇太后及び皇太后を葬る所を陵、その他の皇族を葬る所を墓とし、陵及び墓に関する事項は、これを陵籍及び墓籍に登錄する」と規定されている。

上記の「天皇、皇后、太皇太后及び皇太后(皇后・太皇太后・皇太后を三后と総称する)」には歴代天皇や三后だけでなく、日向三代(瓊々杵尊・彦火々出見尊・鸕鶿草葺不合尊)や北朝の天皇、尊称・追贈天皇や尊称・追贈三后も含まれる。また、奈良県御所市と大阪府羽曳野市にある日本武尊の二つの白鳥陵も「陵」と称されている(三重県亀山市にある能褒野墓は「墓」となっている)。

陵墓を管理している宮内庁のサイトによると、陵は188ヶ所、墓は555ヶ所あるという。ウィキペディアの「宮内庁治定陵墓の一覧」によると、陵のうち歴代天皇陵は112ヶ所、皇后や歴代外天皇などの陵は76ヶ所となっている。神武天皇から昭和天皇まで124代であるのに歴代天皇陵の数がそれより少ないのは、重祚した天皇や合葬された天皇がいるためである。

律令時代、陵墓は治部省に属する諸陵寮で管理されていた。延喜式巻二十一の諸陵寮には、朝廷が管理すべき山陵諸墓として神代三陵(日向三代の御陵)・天皇陵及び三后陵・皇族及び外戚・功臣の墓が列記されている。

ここには各陵墓の所在地や規模、陵墓の守衛に当たる陵戸・守戸の数が記されている。平安時代になっても、現代では架空とされることが多い古代の天皇も含めた御陵が伝えられ、祭祀が執り行われていたことがわかる。

しかし、皇室・朝廷の力が衰えるとともに祭祀が途絶え、陵墓は荒廃して所在がわからなくなるものも多かった。江戸時代以降、尊皇思想の高まりとともに天皇陵探索が盛んになり、幕府による修陵も行われた。現在の陵墓の多くは、江戸時代以来の研究に基づいて治定されたものである。

明治以降、陵墓は宮内省諸陵寮で管理され、現在はその後身である宮内庁書陵部が担当している。全国1都2府30県にある陵188、墓555、分骨所・火葬塚・灰塚など陵に準ずるもの42、髪歯爪塔など68、陵墓参考地46を5監区38部に分けて管理している。

御陵印の歴史

写真付皇陵参拝記念帖

写真付皇陵参拝記念帖(昭和14年頃、顕宗天皇陵・仁賢天皇陵)

御陵印がいつごろ登場したかについては明確でないが、大正10年代のことと思われる。明治末から大正にかけて盛んになり始めた皇陵参拝と寺社の御朱印に倣った記念印の流行が背景にあるだろう。

「御陵 陵印 掲示板」でのレプトン氏のご教示によると、大正9年(1920)の皇陵巡拝の資料があり、そこには御陵の名称と陵墓守部または守長の個人名が書かれ、個人の私印もしくは勤番所の印が押されているが、御陵印は押されてないとのことである。

また、当サイトの作成に当たってたびたび参照させていただいているおかもと氏の「昔の集印帖」には、大正10年(1921)頃、桃山の乃木神社で授与された明治天皇陵の参拝記念印が掲載されている。少なくとも、大正9~10年頃にはまだ御陵印がなかったことはほぼ確実といえよう。

御陵印の始まりに関する資料としては、私の手許に以下のようなものがある。

まず大正13年(1924)に朝日新聞社から刊行された『神社山陵参拝記』の付録「神社山陵印譜」がある。

朝日新聞は皇太子(昭和天皇)御成婚を記念して、東京本社と大阪本社の記者が各道府県を代表する神社と神武天皇陵・明治天皇陵を参拝するという企画を立て、その道中記を紙面で連載した。これをまとめたのが『神社山陵参拝記』で、「神社山陵印譜」は参拝した神社と御陵の朱印を軸装可能なように一枚の紙にまとめたものである。

この中に神武天皇畝傍山東北陵と明治天皇伏見桃山陵・昭憲皇后伏見桃山東陵の印があり、大正13年時点で神武天皇陵と明治天皇陵に御陵印があったことが確認できる(レプトン氏によれば、これが現時点で確認できるもっとも早い御陵印の例とのことである)。

神社山陵印譜(神武天皇陵・明治天皇陵)

「神社山陵印譜」より神武天皇畝傍山東北陵と明治天皇伏見桃山陵の印

次に、大正末期の集印帳に、大正14年(1925)に応神天皇陵参拝でいただいた墨書がある。御陵印はなく、御陵を管理していた古市勤番所(現在の古市陵墓監区事務所に相当)の印が押されている。大正14年時点で応神天皇陵には御陵印がなかったことがわかる。

惠我藻伏崗陵

さらに、昭和に入って授与された御陵印のうち、後一条天皇菩提樹院陵・白河天皇成菩提院陵・鳥羽天皇安楽寿院陵・近衛天皇安楽寿院南陵・二条天皇香隆寺陵の5印は、印文が後一條院天皇・白河院天皇・鳥羽院天皇・近衛院天皇・二條院天皇となっている。歴代天皇の追号については、大正14年に「院」を除いて「○○天皇」に統一しているので、これらの印は大正14年以前に作成されたものと推測できる。

戦前の御陵印(後一条天皇・白河天皇・鳥羽天皇)

戦前の御陵印(後一条天皇陵・白河天皇陵・鳥羽天皇陵)

よって、御陵印は大正10年代に順次作成されたものと思われる。

最初の御陵印は宮内省や諸陵寮等の指示で作成されたわけではなく、参拝者の要望を受けて陵墓守部や勤番所が自主的に作成したのではないだろうか。戦前の御陵印はバラエティに富んでいたことはよく知られているが、御陵を管理する部単位で同一規格の印が作られている例があり、これがその根拠となろう。

例えば山邊部の八稜鏡を模した枠に篆書で御陵の名称のみを記した印(崇神天皇山邊道勾岡上陵・景行天皇山邊道上陵・倭迹迹日百襲姫命墓)や菅原部の菊の御紋をアレンジした印(垂仁天皇菅原伏見東陵・安康天皇菅原伏見西陵)などは一目でわかる。

御陵印(崇神天皇・景行天皇・倭迹迹日百襲姫命)

戦前の御陵印(崇神天皇陵・景行天皇陵・倭迹迹日百襲姫命墓)

戦前の御陵印(垂仁天皇・安康天皇)

戦前の御陵印(垂仁天皇陵・安康天皇陵)

垂仁陵と安康陵の印のデザインの違いは、垂仁陵が前方後円墳、安康陵が方丘であることによると思われる。

また、よく知られている前方後円墳の形をした御陵印は傍丘部の孝霊天皇傍丘馬坂陵と顕宗天皇傍丘磐坏丘南陵で、武烈天皇傍丘磐坏北陵のみ一般的な角印だが、おかもと氏の昔の集印帖には前方後円墳の形をした武烈天皇陵の御陵印が掲載されており、元は同一規格で作られた印だったことがわかる。

戦前の御陵印(孝霊天皇・顕宗天皇・武烈天皇)

戦前の御陵印(孝霊天皇陵・顕宗天皇陵・武烈天皇陵)

以上のような事実から、次のような流れが推測できるだろう。

大正に入ると天皇陵(当時は皇陵と呼ぶことが多かったようだ)参拝が盛んになり、寺社の巡拝帳と同様に陵墓守部または守長に参拝記念の記帳してもらうことも行われるようになった。

一方、この頃には名所旧跡などで寺社に倣った朱印が作られるようになり、皇陵参拝でも朱印を求める人が増えたものと思われる。

その萌芽は大正10年頃、京都の乃木神社での明治天皇陵参拝記念印に見られるが、正式な御陵印は大正10年代に順次作成されたのであろう。大正13年以前、特に参拝者が多かったと思われる神武天皇陵と明治天皇陵ではすでに作成されていたことが確認でき、昭和初年にはほぼ揃っていたのではないかと思われるが、現時点では未確認。

皇陵参拝と御陵印拝受は昭和に入ってますます盛んになり、専用の集印帳も販売されるようになった。早くも作り直された御陵印もあったようで、幾つかの御陵では複数の印影が残っている。さらに歴代外天皇や皇后の御陵、皇族の墓の印も作成された。その全貌はわからないが、私の手許で確認できるだけでも50種類余りもある。

第二次大戦後も、戦前ほどではないにしても天皇陵を巡拝し、御陵印をいただく人は少なくなかったようだ。多くの御陵では戦前からの印が使われていたが、昭和50年頃から順次現行の角印・丸印が新調されたようで、現在では戦前からの印は神代三陵の3印のみとなっている。また、歴代天皇以外の御陵印は授与されなくなった。

昭和53年の御陵印(倉梯岡陵・押坂内陵)

崇峻天皇倉梯岡陵・舒明天皇押坂内陵(昭和53年)

さらに大きな変化は、各部または各御陵にあった御陵印が順次陵墓監区に移され、現在ではすべて5つの陵墓監区事務所で管理されていることである。本来の趣旨から考えると、御陵に参拝しなくても御陵印がいただけるというのはどうかという気もするが、各地に散在する御陵に参拝するのが難しい身にとっては有り難いことでもある。

御陵印の見方

月輪陵・後月輪陵掲示

月輪陵・後月輪陵

御陵印は歴代天皇陵の印なので、天皇ではなく御陵に対応している。各御陵印を見ると、一定の原則に則って印文が決められていることがわかる。

ほとんどの御陵印には葬られている天皇と御陵の名が記されている。

御陵印(畝傍山東北陵、柏原陵、伏見桃山陵)

神武天皇畝傍山東北陵、桓武天皇柏原陵、明治天皇伏見桃山陵

ところが、複数の天皇が合葬されている場合や同一兆域に複数の御陵がある場合は、御陵印が一つにまとめられているため、印文の内容も変わってくる。

複数の天皇を合葬している御陵としては、天武天皇と持統天皇を合葬する檜隈大内陵と、後深草天皇以下12代の天皇(北朝第4代後光厳天皇・第5代後円融天皇を含む)を合葬した深草北陵がある。

御陵印の印文は、檜隈大内陵が「天武天皇 持統天皇 檜隈大内陵」、深草北陵は「深草北陵」となっている。天皇と御陵の名が収まる場合は両方を、収まらない場合は陵名のみを記すようである。

御陵印(檜隈大内陵、深草北陵)

檜隈大内陵、深草北陵

同一兆域に複数の御陵がある例としては、一条天皇円融寺北陵と堀河天皇後圓教寺陵、後朱雀天皇圓乗寺陵・後冷泉天皇圓教寺陵・後三条天皇圓宗寺陵の三陵、六条天皇清閑寺陵と高倉天皇後清閑寺陵、後鳥羽天皇大原陵と順徳天皇大原陵、四条天皇以下12代の天皇の御陵がある月輪陵と光格天皇・仁孝天皇の後月輪陵、後嵯峨天皇嵯峨南陵と亀山天皇亀山陵がある。

この場合も合葬陵と同様に、天皇と御陵の名が収まる場合は両方を、治まらない場合は陵名のみを記している。

大原陵が「後鳥羽天皇大原陵 順徳天皇大原陵」となっているのは、陵名が同じで同一兆域にあっても、それぞれ独立した御陵なのでわざわざ個別に表記しているであろう。戦前の御陵印は「後鳥羽天皇 順徳天皇 大原陵」なので、現在の御陵印が一定の原則に則って作成されていることが窺える。

御陵印(円融寺北陵・後円教寺陵、円乗寺陵・円教寺陵・円宗寺陵、清閑寺陵・後清閑寺陵)

円融寺北陵・後円教寺陵、円乗寺陵・円教寺陵・円宗寺陵、清閑寺陵・後清閑寺陵

御陵印(大原陵、月輪陵・後月輪陵、嵯峨南陵・亀山陵)

大原陵、月輪陵・後月輪陵、嵯峨南陵・亀山陵

また御陵印は御陵に対応しているので、歴代外天皇(北朝の天皇や追尊天皇など)や三后(皇后・太皇太后・皇太后)が同じ御陵に合葬されている場合や同一兆域に御陵がある場合も、それが印文に反映されている。この場合も歴代天皇と同様で、収まる場合は被葬者と御陵の名、収まらない場合は陵名のみが記されている。

北朝第1代の光厳天皇山国陵は百二代後花園天皇の後山国陵と同一兆域にあるので、御陵印は「光厳天皇山国陵 後花園天皇後山国陵」となっている。

御陵印(山国陵・後山国陵)

山国陵・後山国陵

なお、既に述べたように北朝第4代後光厳天皇・第5代後円融天皇は深草北陵に合葬されているので、北朝の天皇で御陵印がないのは第2代光明天皇と第3代崇光天皇を葬る大光明寺陵のみである。現在、大光明寺陵の御陵印はないが、かつては授与されていた。合葬ではないので、もし現在作られるとすると、印文は「光明天皇大光明寺陵 崇光天皇大光明寺陵」となるだろう。

戦前の御陵印(大光明寺陵)

大光明寺陵(昭和10年代)

宣化天皇身狭桃花鳥坂上陵には皇后の橘仲皇女が合葬されている。印文は「宣化天皇 同皇后 身狭桃花鳥坂上陵」。意外なことだが、他に天皇と皇后が合葬されている御陵は天武天皇とその皇后であった持統天皇を葬る檜隈大内陵のみとのこと。

敏達天皇は生母・石姫皇女(欽明天皇の皇后)の御陵に追葬されており、敏達天皇の御陵としては河内磯長中尾陵、石姫皇女の御陵としては磯長原陵と号する。印文は「河内磯長中尾陵 磯長原陵」となっている。

斉明天皇越智崗上陵には皇女で孝徳天皇の皇后であった間人皇女が合葬されている。印文は「斉明天皇 孝徳天皇皇后 越智崗上陵」である。

御陵印(身狭桃花鳥坂上陵・河内磯長中尾陵・越智崗上陵)

身狭桃花鳥坂上陵・河内磯長中尾陵・越智崗上陵

後一条天皇菩提樹院陵には第一皇女で後冷泉天皇の中宮となった章子内親王が合葬されており、印文は「後一条天皇 後冷泉天皇皇后 菩提樹院陵」。後宇多天皇蓮華峯寺陵には生母で亀山天皇の皇后である洞院佶子も合葬されており、御陵印は「後宇多天皇 亀山天皇皇后 蓮華峯寺陵」となっている。

御陵印(菩提樹院陵・蓮華峯寺陵)

菩提樹院陵・蓮華峯寺陵

合葬でも同一兆域にあるわけでもないが、天皇と皇后の御陵を一つの御陵印にまとめている例もある。聖武天皇と仁正皇后(光明皇后)、大正天皇と貞明皇后、昭和天皇と香淳皇后の御陵印で、いずれも天皇と皇后の御陵が隣接している。それぞれ印文は「佐保山南陵佐保山東陵」「大正天皇多摩陵 貞明皇后多摩東陵」「昭和天皇武蔵野陵 香淳皇后武蔵野東陵」となっている。

御陵印(佐保山南陵・多摩陵・武蔵野陵)

佐保山南陵・佐保山東陵、多摩陵・多摩東陵、武蔵野陵・武蔵野東陵

御陵印をいただいたときは、印文にも注目していただきたい。

御陵印とは、歴代天皇陵の参拝記念の印である。一般にはそれほど知られていないが、戦前から収集する人は多く、専用の集印帳があるほか、掛け...

※掲載の情報は最新のものとは限りません。ご自身で確認をお願いします。

スポンサーリンク
サイト内検索
広告レクタングル(大)




サイト内検索
広告レクタングル(大)




シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする