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谷中七福神

東覚寺

田端 東覚寺(福禄寿)

谷中七福神は江戸で最も古い七福神といわれ、上野寛永寺から谷中・日暮里・田端に祀られた七福神を巡拝する。周辺は今なお下町情緒が残されており、散策コースとしてもお勧めである。

■不忍池弁天堂:弁財天
■護国院:大黒天
■長安寺:寿老人
■天王寺:毘沙門天
■修性院:布袋尊
■青雲寺:恵比寿神
■東覚寺:福禄寿

以上の寺院のみ7ヶ所で構成されている。

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谷中七福神について

谷中七福神の始まりは必ずしも明確でないが、享和3年(1803)の『享和雑記』に、「正月に七福神参りとして不忍の弁財天、谷中感応寺の毘沙門天、同じく長安寺の寿老人、日暮里青雲寺の恵比寿・大黒天・布袋、田端西行庵の福禄寿などを参拝する人が増えている」という記事がある。

また、文化文政天保の頃の風俗を記録した『江戸風俗惣まくり』には「谷中日暮里七福詣」として「谷中日暮里に春のあした七福詣という事ありて、今の天王寺の毘沙門天、天台嶺護国院の大黒天、池の端の弁財天(不忍池弁財天)、笠森脇(笠森稲荷のそば=長安寺)の寿老人、田畑(田端=青雲寺)の恵比寿、西行庵の福禄寿、日暮里の布袋也」とある。

『享和雑記』にある谷中の感応寺は現在の天王寺のこと。田端の西行庵は東覚寺の末寺・普門院のことで、明治に廃寺となったため福禄寿の像は東覚寺に遷されている。『江戸風俗惣まくり』の布袋尊を祀った日暮里の寺は廃寺となった臨済宗寺院で、布袋尊像が修性院に遷されるのは天保以降のことのようである。いずれにせよ、この頃にはすでに谷中七福神の原型が成立していたことがわかる。

ただし、かつては必ずしも現在の7ヶ寺に固定されていたわけではなく、近辺の七福神を祀る寺社を参詣者がある程度自由に選んでいたという。例えば神田明神もしくは上野清水堂を恵比寿及び大黒とする、日暮里の経王寺を大黒天とする、谷中の本通寺を毘沙門天とする、同じく養泉寺を弁財天とする、寿老人を除いて上野大仏前の吉祥天に詣るといったこともあったようだ。

平成18年に初めて巡拝、平成28年に2度目の巡拝をした。巡拝した日が違うということもあるだろうが、それにしてもずいぶん人が増えているように感じた。

特に目立った違いは、御朱印を朱印帳にいただく人が増えたことである。平成18年に巡拝した時はほとんどの人が色紙で、御朱印帳を持って巡拝している人はほとんどいなかった。私が御朱印帳を差し出すと、周囲の人が珍しそうにのぞき込むほどだった。ところが、平成28年の巡拝時には、色紙より御朱印帳の人のほうが多いのではないかと思われるほどだった。

しかし、そのぶん御朱印の待ち時間も長くなるわけで…。なかなか難しいものである。

巡拝情報

御開帳及び御朱印の対応は1月1日~10日で、時間は9時~17時。所要時間は約2時間と非常に手頃だが、御朱印の待ち時間によって大きく変動するので注意が必要である。

不忍池弁天堂からスタートして田端の東覚寺に向かうか、逆に東覚寺から不忍池弁天堂に向かうかになるが、どちらも駅から近く、交通の便はよい。不忍池弁天堂から始める場合には上野駅か東京メトロ千代田線の湯島駅・根津駅、東覚寺から始める場合は田端駅が最寄り駅になる。

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不忍池弁天堂(弁財天)

不忍池弁天堂・弁財天

■東叡山 寛永寺 不忍池弁天堂
御本尊:弁財天
創建年代:寛永年間(1624~44)
開山:慈眼大師天海
宗派:天台宗(大本山寛永寺境外祀堂)
所在地:東京都台東区上野公園2-1 [Mapion|googlemap]
公式サイト:http://bentendo.kaneiji.jp/

略縁起

不忍池弁天堂は寛永寺の境外祀堂で、不忍池の中に築かれた島にある。天海僧正が京の都における比叡山延暦寺に倣って江戸の鬼門・上野の忍岡に東叡山寛永寺を創建した際、不忍池を琵琶湖に見立て、竹生島に準えて築いた中之島に弁財天を祀ったと伝えられる。ただし、寛文2年(1662)に浅井了意が著した『江戸名所記』には水谷伊勢守の建立とある。かつての別当は天龍山妙音寺生池院。

御本尊は秘仏の八臂大弁財天。8本の腕にそれぞれ煩悩を破壊するための武器を持つ姿をしている。竹生島の宝厳寺から勧請されたもので、慈覚大師の御作と伝えられる。

御朱印

  • 不忍池弁天堂の御朱印

    (1)

  • 不忍池弁天堂の御朱印

    (2)

(1)平成18年拝受の御朱印。中央の朱印は弁財天の種字「ソ」に「帰敬三宝諸天衆 妙響調伏諸人天」。右上は「福徳圓満」、左下は「不忍池辯天堂」。

(2)平成28年拝受の御朱印。朱印は平成18年のものと同じ。

アクセス

□護国院(大黒天)より徒歩13分

□JR山手線・京浜東北線他「上野駅」より徒歩7分
□京成線「京成上野駅」より徒歩4分
□東京メトロ千代田線「湯島駅」より徒歩7分
□東京メトロ千代田線「根津駅」より徒歩9分

護国院(大黒天)

護国院

■東叡山 寛永寺 護国院
御本尊:釈迦牟尼如来
札所本尊:大黒天
創建年代:寛永2年(1625)
開山:生順大僧正
宗派:天台宗
所在地:東京都台東区上野公園10-18 [Mapion|googlemap]

略縁起

護国院は寛永寺三十六坊の一。寛永2年(1625)天海僧正による寛永寺創建と同時に、その弟子である生順僧正が東叡山最初の子院として創建した。寛永7年(1630)天海僧正が寛永寺境内に釈迦堂を建立すると、その別当となった。釈迦堂は、根本中堂が完成するまで寛永寺の総本堂の役割を果たしていた。

その後、釈迦堂は享保2年(1717)に焼失し、享保7年(1722)に再建されたが、昭和2年(1927)東京市立二中(現・上野高校)開設に当たって境内の大半を譲渡したため、現在地に移築。これを機に護国院の本堂となった。

谷中七福神の大黒天は、藤原信実卿の筆と伝えられる画像である。寛永16年(1639)大坂城落城25年に当たり、釈迦堂で豊臣・徳川両軍の霊を弔うために営まれた大念仏法要の奉賽として、徳川家光から寄進された。当時から霊験著しいことで知られ、正月3日の大黒詣で・福湯行事の賑わいは江戸名所図会や江戸砂子にも取り上げられている。ただし、お前立ちの像があって、御開帳の際も直接見ることは難しい。

御朱印

  • 護国院の御朱印

    (1)

  • 護国院の御朱印

    (2)

(1)平成18年拝受の御朱印。中央の朱印は蓮華座上の火焔宝珠に梵字。大黒天の種字は「マ」のはずだが、これは「キャ」のように思われる。右上は小槌に「奉拝」、左下は巾着に「護國院」。

(2)平成28年拝受の御朱印。朱印は平成18年のものと同じ。

アクセス

□不忍池弁天堂(弁財天)より徒歩13分
□長安寺(寿老人)より徒歩8分
□天王寺(毘沙門天)より徒歩10分

□東京メトロ千代田線「根津駅」より徒歩7分

長安寺(寿老人)

長安寺・寿老人

■大道山 長安寺
御本尊:千手観世音菩薩
札所本尊:寿老人
創建年代:寛文9年(1669)
開山:老山和尚
宗派:臨済宗妙心寺派
所在地:東京都台東区谷中五丁目2-22 [Mapion|googlemap]
公式サイト:http://www.choanji.net/

略縁起

長安寺は、寛文9年(1669)老山和尚によって開創された。当初は長安軒と称していた。御本尊は千手観世音菩薩で、西国22番総持寺の御本尊の写しであるという。

伝承によれば、行脚の老翁がこの地に小さな御堂を建てて長安軒と名付け、寿老人の尊像をお祀りしていた。ある時、老山和尚が夕暮れにこの辺りを通りかかり、長安軒に一夜の宿を求めた。

その夜、老翁は老山和尚に「小さな御堂ではあるが、前々からどなたか立派な方にお譲りしたいと思っていた。幸いなことに、今夜あなたがお泊まりになった。どうか、この御堂をお守りいただきたい。ここに祀っているのは七福神の内の南極星寿老尊人で、福徳自在の神である。この里は不忍の岡に弁財天、護国院に大黒天、感応寺に毘沙門天、この長安軒に寿老人がある。将来、これに基づいて七福神を祀る地となるであろう」と語った。

その時、突然鐘の音が響き、和尚が驚いて顔を上げると夢であった。起き出して老翁を探したが見当たらない。やむなく和尚は長安軒に留まることになったという。

この寿老人の像は脇に鹿を従えた等身大の坐像で、徳川家康の納めたものと伝えられている。

御朱印

  • 長安寺の御朱印

    (1)

  • 長安寺の御朱印

    (2)

(1)平成18年拝受の御朱印。中央の朱印は「佛法僧宝」の三宝印。右上の印は「無病息災 福徳圓満」、左下は「長安寺印」。

(2)平成28年拝受の御朱印。朱印は平成18年のものと同じ。

アクセス

□護国院(大黒天)より徒歩8分
□天王寺(毘沙門天)より徒歩4分
□修性院(布袋尊)より徒歩8分

□JR山手線・京浜東北線「日暮里駅」より徒歩5分
□東京メトロ千代田線「千駄木駅」より徒歩7分

天王寺(毘沙門天)

天王寺・毘沙門天

■護国山 尊重院 天王寺
御本尊:阿弥陀如来
札所本尊:毘沙門天
旧称:長耀山 感応寺
創建年代:文永11年(1274)
開山:日源上人
宗派:天台宗
所在地:東京都台東区谷中七丁目14-8 [Mapion|googlemap]

略縁起

天王寺は、元は長耀山感応寺と称する日蓮宗の寺院であった。この地の土豪・関長耀が日蓮聖人に帰依して草庵を設け、聖人の弟子・日源が聖人自刻の像を祀ったことに始まると伝えられる。室町時代に碑文谷法華寺の日耀が中興してより繁栄した。

しかし、不受不施派(法華信者以外からは布施を受けず、他宗の僧侶には布施をしない)の有力寺院であったため、元禄11年(1698)江戸幕府から改宗を命じられた。これに抵抗した重力の日遼は八丈島へ遠島となり、日蓮聖人像などの寺宝も瑞輪寺など近隣の日蓮宗寺院に移されて、感応寺は廃絶の危機に瀕した。

寛永寺の公弁法親王はこの名刹が廃寺となることを惜しみ、天台宗に改宗・存続させた。当寺が東叡山寛永寺の北にあることから、比叡山延暦寺の北にある鞍馬寺に毘沙門天を奉安して国家安穏・仏法護持を祈願していることに倣って本尊は毘沙門天とされた(明治になって阿弥陀如来が本尊となった)。天保4年(1833)中山法華経寺の日啓らにより日蓮宗への復帰が企てられたのを機に、護国山天王寺と改称した。

元禄13年(1700)に富くじの興行が許され、湯島天神・目黒不動とともに「江戸の三富」に数えられて大いに賑わったことでも知られる。

毘沙門天像は、天台宗に改宗した際、本尊として比叡山飯室谷の円乗院から遷されたもので、伝教大師の御作と伝えられる(台東区指定有形文化財)。戊辰戦争の際、彰義隊の英書とされたことから兵火に巻き込まれ、本堂も焼失したが、毘沙門天像は四谷の安禅寺に避難して無事だった。現在の毘沙門堂は、昭和36年(1961)に放火で焼失した五重塔の残材を用いて再建されたものである。

御朱印

  • 天王寺の御朱印

    (1)

  • 天王寺の御朱印

    (2)

(1)平成18年拝受の御朱印。中央の朱印は火焔宝珠に毘沙門天の種字「ベイ」、右上は「七難即滅 七福即生」、左下は「護國山天王寺」。

(2)平成28年拝受の御朱印。朱印は平成18年のものと同じ。

アクセス

□護国院(大黒天)より徒歩10分
□長安寺(寿老人)より徒歩4分
□修性院(布袋尊)より徒歩10分

□JR山手線・京浜東北線・東京メトロ千代田線「西日暮里駅」より徒歩5分
□JR山手線・京浜東北線「日暮里駅」より徒歩7分

修性院(布袋尊)

修性院・布袋尊

■運啓山 純光寺 修性院
御本尊:三宝尊
札所本尊:布袋尊
通称:花見寺
創建年代:天正3年(1575)
開山:日運上人
宗派:日蓮宗
所在地:東京都荒川区西日暮里三丁目7-12 [Mapion|googlemap]

略縁起

修性院は、天正3年(1575)長耀山感応寺(現・天王寺)第6世・修性院日運上人により開創され、寛文3年(1663)感応寺第12世・日純上人の代に現在地に移転・再興された。

かつては第一日暮里小学校を含む諏訪台にかけての一帯が当院の持地であった。宝暦6年(1756)ここに庭造りの名人・岡扇計によって庭園が造られると、遊客が絶えず訪れる行楽地となり、隣接する妙隆寺(明治に修性院に合併。昭和初め、身延山関東別院を創建する際、妙隆寺の寺基を移す形で玉川寺が創建された)・青雲寺とともに「花見寺」と称された。

修性院の布袋尊像は「日ぐらしの布袋」と称される。高さ2m、重さ200kgもある座像で、文化年間(1804~18)に青雲寺から遷されたものと伝えられる。ただし、文化文政天保の頃の風俗を記録した『江戸風俗惣まくり』に、布袋像は日暮里の寺(名称不明)に祀られていたが、廃寺となって本寺の駒込円通寺(臨済宗)に移されたとあるので、修性院への奉安は天保以降のことだろう。

御朱印

  • 修性院の御朱印

    (1)

  • 修性院の御朱印

    (2)

(1)平成18年拝受の御朱印。中央の朱印は「谷中七福神」「布袋尊」「日蓮宗 修性院」。

(2)平成28年拝受の御朱印。朱印は平成18年のものと同じ。

アクセス

□長安寺(寿老人)より徒歩8分
□天王寺(毘沙門天)より徒歩10分
□青雲寺(恵比寿神)より徒歩2分

□JR山手線・京浜東北線・東京メトロ千代田線「西日暮里駅」より徒歩5分
□JR山手線・京浜東北線「日暮里駅」より徒歩7分

青雲寺(恵比寿神)

青雲寺・恵比寿神

■浄居山 青雲寺
御本尊:聖観世音菩薩
札所本尊:恵比寿神
通称:花見寺
創建年代:不詳/宝暦年間(1751~64)再興
開山:智光禅師
宗派:臨済宗妙心寺派
所在地:東京都荒川区西日暮里三丁目6-4

略縁起

青雲寺は、元は最井山浄居寺といい、武蔵国入間郡にあった。

宝暦の頃(1751~64)下総国佐倉城主の堀田正亮は、自ら帰依する白瑛和尚のために一寺を建立しようとしたが、白瑛が固辞して果たすことができなかった。白瑛が遷化した後、麟孫頑海和尚と相談し、荒廃した浄居寺を移転・再興して浄居山青雲寺と改め、白瑛和尚を開山、麟孫頑海和尚を中興とした。寺号の青雲寺は正亮の法号・青雲殿松山亮貞大居士に因む。

花樹を植え、庭園を造って、隣接する修性院・妙隆寺とともに「花見寺」と呼ばれた。また、境内には富士浅間宮・秋葉・金比羅・弁財天・護国稲荷・布袋堂・恵比寿堂などの諸堂があったが、文化4年(1807)火災で焼失。布袋像は修性院に移され、恵比寿堂と金比羅社(安井金比羅社。現存せず)は再建されたが、その他の諸堂は再建されなかった。庭園も天保(1830~43)以前に廃絶したという。

明治に入って再興されたが、昭和20年(1945)の大空襲により焼失。現在の本堂は昭和35年(1960)に再建されたものである。

青雲寺の恵比寿神像は、修性院の布袋尊像に匹敵する巨大な像だったというが、これも空襲で焼失してしまった。現在の恵比寿像は、昭和40年(1965)に開眼された木造彩色の小像である。

御朱印

  • 青雲寺の御朱印

    (1)

  • 青雲寺の御朱印

    (2)

(1)平成18年拝受の御朱印。中央の朱印は「恵比寿神」、右上は「奉拝」、左下は鯛に「日暮里 青雲禅寺」。

(2)平成28年拝受の御朱印。朱印は平成18年のものと同じ。

※青雲寺でいただける御朱印は七福神の恵比寿神のみで、御本尊の御朱印は授与していない。

アクセス

□修性院(布袋尊)より徒歩2分
□東覚寺(福禄寿)より徒歩10分

□JR山手線・京浜東北線・東京メトロ千代田線「西日暮里駅」より徒歩3分

東覚寺(福禄寿)

東覚寺・福禄寿

■白龍山 寿命院 東覚寺
御本尊:不動明王
札所本尊:福禄寿
創建年代:延徳3年(1491)
開山:源雅和尚
宗派:真言宗豊山派
所在地:東京都北区田端2-7-3 [Mapion|googlemap]
公式サイト:http://togakuji.com/(※リンク切れ)

略縁起

延徳3年(1491)源雅和尚が神田筋違橋(万世橋の辺り)に開創したと伝えられる。その後、根岸に移転、さらに慶長の初め頃(1600頃)、田端の現在地に移った。江戸時代には幕府より朱印地7石を寄せられていた。江戸時代以前は田端八幡神社の別当で、名高い赤紙仁王尊もかつては田端八幡神社の社前に安置されていた。

東覚寺の福禄寿は、もともと末寺の普門寺に奉安されていたものである。普門寺は阿弥陀如来を本尊とし、西方山阿弥陀院と号した。下谷茅町の善右衛門がこの寺に隠棲し、陶器で西行法師の像を作り、好事の人に与えたことから西行庵と呼ばれるようになった。

福禄寿はこの寺の六角堂に祀られており、上記『享和雑記』の七福神の記述にも「田端西行庵の福禄寿」として名前が挙げられている。明治になって普門寺が廃寺となったため、東覚寺に遷されたという。

御朱印

  • 東覚寺の御朱印

    (1)

  • 東覚寺の御朱印

    (2)

(1)平成18年拝受の御朱印。中央の朱印は巾着に「福禄壽」、右上は巻物に「奉拝」、左下は「東覚密寺」。

(2)平成28年拝受の御朱印。朱印は平成18年のものと同じ。

アクセス

□青雲寺(恵比寿神)より徒歩10分

□JR山手線・京浜東北線「田端駅」より徒歩5分

コメント

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