文化10年(1813)に阿波国板野郡大寺村に住む三橋茂兵衛という人物が母親を同行して西国三十三所と善光寺を巡拝した納経帳。タイトルは聖観世音菩薩の種字「サ」に「奉納経帳」。大寺村は現在の板野町大寺で、四国3番札所金泉寺の周辺である。
2月7日に27番書写山から巡り始め、播磨・丹後・北近江・美濃の札所を参拝し、そのまま信州の善光寺に向かっている。
それから那智に向かい、ほぼ順番通りに巡拝して(16番と17番だけが入れ替わっている)、4月13日に中山寺で結願となっている。文化10年の4月13日は新暦の5月13日なので、今日(2013年5月13日)からちょうど200年前ということになる。
女性連れであったため、27番書写山と11番醍醐寺は女人堂に参拝・納経している。
善光寺は、現代でも西国三十三所を結願した後に御礼参りとして参拝する習慣がある。これは、関東の人々が西国を巡拝する際、その途中に善光寺があるからではないかという説がある。しかし、この納経帳ではわざわざ西国の巡礼路をいったん離れて善光寺に向かっている。
善光寺は古くから女人救済・女人往生の信仰で名高く、宗派を問わず広く信仰を集めた。江戸時代には「一生に一度は善光寺詣りを」と多くの人が参詣したという。
本来は西国の一環あるいはお礼参りとして善光寺に参拝したのではなく、西国と善光寺を目的とする巡礼だったのではないだろうか。関東から西国と善光寺を巡拝する人たちが、西国からの帰途に善光寺を参詣したため、「お礼参り」と意義づけられるようになったのではないかと考える。
【1】文化10年(1813)西国三十三所の納経帳詳細(前半)
【2】文化10年(1813)西国三十三所の納経帳詳細(後半)