武蔵野神社

武蔵野神社

武蔵野神社は、野中新田の鎮守として享保9年(1724)に建立された毘沙門社を起源とする。黄檗宗・円成院が管理していたが、明治の神仏分離で独立。末社に祀られていた猿田彦大神を御祭神とし、武蔵野神社と改称した。
北多摩地域の神社

正式名称 武蔵野神社〔むさしのじんじゃ〕
御祭神 猿田彦大神
社格等 旧村社
鎮座地 東京都小平市花小金井8-26 [Mapion|googlemap]
東都神社御朱印集
東京の神社400社以上の御朱印や由緒などの紹介。珍しい江戸時代から昭和戦前までの御朱印も掲載。

御朱印

 

  • 武蔵野神社の御朱印

    (1)

(1)平成30年拝受の書き置きの御朱印。中央の朱印は社殿に桜と銀杏をあしらったスタンプ。左下は「武蔵野神社印」。揮毫は中央に「武蔵野神社」、右に金文字で「猿田彦大神」。

※本務社である小平神明宮でいただいた。

御由緒

拝殿

御祭神

■猿田彦大神

■建御名方神(諏訪神社)

■護国の英霊(御霊神社)

『平成「祭」データ』は祭神を猿田彦大神一柱とし、建御名方神と護国の英霊は境内社・諏訪神社と御霊神社の祭神とする。しかし、境内にそれらしい社殿は見当たらないので、本殿に合祀しているのではないかと思われる。

『神社明細帳』は明治41年(1908)に合祀した建御名方神を猿田彦命と同格の御祭神として扱っている。

『北多摩神社誌』には「明治41年諏訪神社を合祀し、昭和26年9月23日郷土の護国神を配祀する」とある。

由緒

鳥居

武蔵野神社は北野中新田(現在の花小金井・上水南町など)の鎮守。江戸時代は毘沙門社と称し、別当の黄檗宗・円成院によって管理されていた。

北野中新田は享保(1716~36)の頃から武蔵野台地に開かれた武蔵野新田の一つ。南野中新田(国分寺市北町など)と合わせて野中新田ともいう。武蔵野神社の創建は野中新田の開発と深く関わっている。

享保の頃、上谷保村にあった円成院の住職・大堅と、同じく上谷保村の農民であった矢沢藤八は、柴崎村(立川市)から上谷保村の北裏を経て田無村(西東京市)まで、東西60町(約6.5km)、南北30町(約3.3km)の広大な地域の新田開発を企てた。

二人は上谷保村の百姓6人と江戸牛込榎町の米屋喜右衛門、源右衛門、長右衛門、牛込関口の大屋六左衛門らを仲間とし、享保7年(1722)10月藤八ら5名の連名で新田開発を願い出た。

この新田開発計画について、『新編武蔵風土記稿』に「この新田、上谷保村円成院の住僧大堅といえるもの開墾の志願たりしが、法体のことなれば同意のもの十二人をかたらい開きしという」とあり、最初に新田開発を発願したのは大堅だった。

大堅は宝永2年(1705)上谷保村に黄檗宗の円成院を開いた。しかし黄檗宗は江戸時代に入って開かれた新しい宗派であり、新たに檀家を獲得するのは難しかった。そこで自ら新田を開発し、住民を檀家にしようと考えたのである。

僧侶という立場のため事業の前面に立つことはなく、願書に名を連ねることもできなかったが、この新田開発は大堅が祀っていた毘沙門天のお告げによって行われるものであり、円成院の本尊・千手観音より諸願成就の御鬮をいただいているので絶対に成功するといって人々を説得した。

願書の提出に先立って、大堅と藤八は次のような願状を仏前に捧げている。

  謹奉捧願状

本尊大悲千手観世音、当所鎮守天満天神(※谷保天満宮のこと)並毘沙門天王、惣而日本六十余州大小之神祗。意趣者当村付之武蔵野新田開発之願、江戸喜右衛門取持にて御公儀様近々願書指出ス積リ罷成候。此発端人は拙僧と藤八両人之存立に候。願之通被仰付被下候はゞ、矢沢新田と村名を付、箭沢山長流寺と取立、村鎮守には毘沙門天王勧請之積り、仲間五人にて相極申候。一日も早く願之通被仰付候様奉願候。若此願状に相背候はば、仲間者立所に神罰冥罰可蒙候。仍而願文如件。

これによれば、出願者5人の取り決めにより、村名を藤八の姓に因んで矢沢新田とし、円成院を箭沢山長流寺として取り立て、村の鎮守として毘沙門天を勧請することを誓っている。ただし、村名と寺の名については、後述の事情により変更されることになる。

さらに同年12月、出願人一同11名は大堅に証書を提出し、幕府の許可を得て土地を与えられたならば、最初に新田鎮守となる毘沙門天堂の用地を確保して宮を建立すること、円成院の土地を出願人11人と同様に配分すること、円成院を惣村中の菩提寺とすること、新田内の処置は一同と円成院住職との相談の上で決めることなどを誓約した。

そして享保8年(1723)5月、開墾許可地の境杭が打たれた。新田出願人11人は改めて協議し、開墾地を十二等分して、その一を社地及び寺地とすることを申し合わせた。

ところが同年6月、幕府より冥加金として250両の上納を命じられた。円成院や出願人では負担できなかったため、上総国望陀郡万石村(千葉県木更津市)の名主・野中善左衛門に依頼、村名を野中新田とし、希望の土地をそれぞれの割り当て地から供出することを条件に全額拠出してもらうことになった。

こうして享保9年(1724)5月、513町(約510ha)の土地が上谷保願場として割渡された。同年9月3日、大堅は上谷保村より毘沙門天を遷し祀り、毘沙門社の遷宮祭を執り行った。これが武蔵野神社の創祀である。

鍬下年季が過ぎた享保11年(1726)には正式に野中新田の村名と村役人が決められた。翌享保12年(1727)には上谷保村から円成院を引寺し、大堅の師・実山道伝を招請開山に迎えて野中山円成院と号した。

徐々に出百姓が増えてくると、年貢の円滑な徴収などのために組み分けが行われることになり、享保17年(1732)与右衛門組・善左衛門組・六左衛門組の3組に分けられ、それぞれに名主が置かれた。

後に六左衛門組は南野中新田となり、与右衛門組・善左衛門組が北野中新田となった。毘沙門社は善左衛門組にあり、北野中新田の鎮守となった。南野中にも享保10年(1725)に分祀していたが、村の鎮守は神明社(国分寺市北町の神明社)とされた。南野中に分祀された毘沙門堂は鳳林院(国分寺市並木町)境内に現存している。

社号標

明治の神仏分離により毘沙門社は円成院から独立。末社に祀られていた猿田彦大神を主祭神として武蔵野神社と改称、村社に列格した。

明治41年(1908)与右衛門組にあった諏訪社を合祀。さらに昭和26年(1951)郷土の護国英霊を配祀した。

写真帖

  • 鳥居

    社頭風景

  • 参道

    参道

  • 七福神

    七福神

  • 手水舎

    手水舎

  • 忠魂碑・戦役記念碑

    忠魂碑・戦役記念碑

  • 社号標

    社号標

  • 猿田彦大神御神像

    猿田彦大神御神像

  • 御神木

    御神木

  • 拝殿

    拝殿

  • 本殿

    本殿

メモ

青梅街道沿いに大きな社号標と鳥居が建つ。両脇に朱色の鳥居が並ぶ長い参道を進んでいくと、社叢を背景にして木造社殿が建っている。神職常駐の神社ではないが、境内は手入れが行き届いているようで、地元の人から大切にされている様子が伝わってくる。

武蔵野神社の概要

名称 武蔵野神社
旧称 毘沙門社
御祭神 猿田彦大神〔さるたひこのおおかみ〕
〈諏訪神社〉
建御名方神〔たけみなかたのかみ〕
〈御霊神社〉
護国の英霊〔ごこくのえいれい〕
鎮座地 東京都小平市花小金井八丁目26番
創建年代 享保7年(1722)
社格等 旧村社
例祭 10月3日
神事・行事 1月1日/元旦祭
2月節分/節分祭
4月13日/祈年祭(春祈祷)
6月30日/夏越大祓
11月25日/新嘗祭
12月31日/歳越大祓
※『平成「祭」データ』による

交通アクセス

□西武新宿線「花小金井駅」より徒歩約15分

北多摩地域の神社
北多摩地域の神社の御朱印。大國魂神社・谷保天満宮・小野神社・小金井神社・阿豆佐味天神社・諏訪神社・豊鹿嶋神社・小平神明宮・田無神社・東伏見稲荷神社・武蔵野八幡宮・青渭神社・国領神社・虎狛神社・布多天神社・伊豆美神社など29社

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