東京には多数の七福神霊場があり、新年には多くの巡拝社を集めている。その中には谷中七福神・隅田川七福神・元祖山手七福神のように江戸時代から続くものから、千寿七福神や小石川七福神のように平静になって始まった新しいものまである。
従来、七福神の御朱印というと色紙に押印してもらうのが一般的だったが、都内の多くの七福神霊場では御朱印帳に記帳押印していただくことも可能で、特に御朱印ブームが起こってからは御朱印帳を持って巡拝する人が多くなった。
各七福神霊場によって開帳期間その他の対応はさまざまで、御朱印についてもご開帳期間限定のところから通年対応のところまでいろいろある。対応時間などにも違いがあり、事前になるべく新しい情報を集めておいたほうがいいだろう。
東京の七福神霊場
七福神とは
七福神とは、福徳をもたらす神として広く信仰されている七柱の神で、一般に恵比寿・大黒天・毘沙門天・弁財天・福禄寿・寿老人・布袋和尚をいう。ただし、福禄寿と寿老人はどちらも南極老人星の化身とされることから、両者を同一として寿老人の代わりに吉祥天などを入れることもあった。
古くから福徳の神として信仰を集めた西宮の夷(恵比寿)、叡山の大黒天、鞍馬の毘沙門天、竹生島の弁財天などに、室町時代に中国から伝わった布袋、福禄寿、寿老人などを加え、当時画題として人気のあった竹林の七賢に見立てて七柱の神々をセットにしたのだろうと考えられている。
その成立時期は不詳だが、文明年間(1469~87)には都に七福神の装いをした盗賊が現れたという記録があるという。現在の顔ぶれがほぼ定まったのは江戸時代の初めの頃のようである。
東京の七福神の歴史
江戸時代の半ばになると、正月に七福神を祀る寺社を巡拝するという風習が起こった。その発祥は七福神信仰が始まった京都だといわれる。古くから七福神巡拝が行われていたことは間違いないが、今のところ、いつ頃始まったかについての資料を見たことはない。
江戸の七福神巡りもその始まりは不明確だが、19世紀の初頭にはすでに行われていたようである。
江戸時代の七福神巡り
江戸の七福神霊場では、谷中七福神と元祖山手七福神がもっとも古いとされる。
谷中七福神は、享和3年(1803)の『享和雑記』に、「正月に七福神参りとして不忍の弁財天、谷中感応寺の毘沙門天、同じく長安寺の寿老人、日暮里青雲寺の恵比寿・大黒天・布袋、田端西行庵の福禄寿などを参拝する人が増えている」という記事がある。
また、文化文政天保の頃の風俗を記録した『江戸風俗惣まくり』の「谷中日暮里七福詣」は現在の谷中七福神と一致しており、この頃には谷中七福神の原型ができていたことがわかる。
ただし、必ずしもこれらの寺社に固定されていたわけではなく、神田明神の恵比寿・大黒や日暮里経王寺の大黒天、谷中本通寺の毘沙門天、養泉寺の弁財天など、近辺の寺社の七福神を適宜選んで参拝していたようだ。
一方、元祖山手七福神は天保9年(1838)の『東都歳時記』に谷中七福神とともに「山の手七福神参り」としてあげられているのが文献上の所見である。ただし、弁財天を祀る蟠龍寺に安永4年(1775)の山手七福神の標石があり、それが事実ならば谷中七福神よりも古いことになるということから「江戸最初」を称する。
『東都歳時記』に記される「山の手七福神参り」はほぼ現在の元祖山手七福神と共通しているが、毘沙門天と大黒天のみ異なっている。
文化12年(1815)の正月に七福神詣でをした十方庵敬順(『歴遊雑記』の著者)は、牛込善国寺の毘沙門天、伝通院内福聚殿の大黒天、田端村西行庵の福禄寿、日暮里村妙了院の布袋禅師、谷中長安寺の寿老人、しのぶが岡弁財天(不忍池弁天堂であろう)、浅草寺境内西の宮の夷を選んで参拝している。
谷中や山の手の七福神霊場は誰かが七ヶ所を選んで始めたわけではなく、各自が適宜七ヶ所を選んで参拝していたものが、人気や経路の便利さから次第に固定され、自然発生的に成立したのであろう。
これに対して、当初から札所を固定して始まった七福神霊場の元祖は隅田川七福神である。佐原鞠塢が開いた向島百花園に集った大田南畝らの文人墨客が、正月の遊びとして向島近辺の七福神を選んだのがその始まりとされる。文政元年(1818)の頃のこととされ、平成30年(2018)には開祀200年を迎えた。
衰退と復興を繰り返して
明治維新後、正月の七福神巡りは衰退してしまったが、明治31年(1898)隅田川七福神で隅田川七福会が結成されたことをきっかけに賑わいを取り戻すようになった。明治40年頃には亀戸七福神が開創された。さらに昭和に入ると浅草・深川・東海・山ノ手(現在の新宿山ノ手七福神)・麻布(現在の港七福神)・板橋などの七福神霊場が次々開かれた。
しかし、これらの七福神霊場も第二次大戦後の混乱で再び衰微。人々の心を明るくするためにと昭和25年頃に始められた日本橋七福神も、昭和32年に創始者の有馬頼寧が亡くなると中断した
七福神霊場が改めて脚光を浴びるようになるのは、昭和50年頃のことである。休止していた深川・浅草・日本橋などの七福神霊場が次々再興され、麻布七福神は港七福神として新しく出発した。下谷や荏原などの新しい七福神も創設され、多摩地域にも八王子・日野・調布などの七福神霊場が誕生した。その流れは平成にまで及んでいる。
特に近年では御朱印ブームも相まって、以前にも増して多くの人々が七福神巡りをするようになっている。
七福神の御朱印
もともと七福神巡拝で御朱印をいただくという習慣はなかったようである。
明治44年(1911)の『東京年中行事』(東洋文庫)には隅田川七福神を巡拝した際の記事があり、その中に向島百花園で七福神の御分体について説明してくれたお爺さんの、大田南畝たちが隅田川七福神を始めた頃は御分体を集めて楽しむ一種の遊びとして行われていたが、今ではやたらと拝むだけになってしまったという言葉が紹介されている。ここでは御朱印については一切触れられていない。
これまで見た中で、七福神巡りでの御朱印拝受に関するもっとも古い資料と思われるのは、大正の頃に関西方面で作成されたと思われる「蒐集趣味 集印の栞」である。「西国三十三所霊場道しるべ」や「官幣大社所在地案内」など御朱印がいただける霊場や神社仏閣を列記したものだが、この中に「七福神めぐり道しるべ」として京都・大阪・奈良の七福神が紹介されている。「官幣大社所在地案内」や「円光大師御旧蹟札所巡道しるべ」から大正10年頃のものと判断できるので、集印が盛んとなった大正の頃に七福神巡りで御朱印をいただくようになったと推測できる。
東京では、昭和8年の東海七福神の御朱印が確認できる。通常の御朱印に七福神の名を墨書したものである。また、昭和10年のもので麻布七福神の七福神としての特別な御朱印や東海七福神のスタンプ(現在の東海七福神の御朱印とほぼ同じもの)が残っている。
当初は七福神巡拝でも通常の御朱印を授与していたものが、七福神巡拝や御朱印拝受が盛んになるにつれ、専用の御朱印が作られたという流れが想定できるが、現時点では資料が少ないため断言はできない。