龍鳴山 本覚寺(日限祖師)

日限本覚寺

名称 龍鳴山 本覚寺
通称 日限本覚寺
祖師像 日限祖師
所在地 東京都台東区松が谷2-8-15 [Mapion|googlemap]

【略縁起】
徳川家康の政治顧問の一人として三河から江戸に随伴した上行院日覚上人が、天正19年(1591)日本橋馬喰町に寺地を賜って創建したと伝えられる。明暦の大火の後、現在地に移転した。祖師像は六老僧の一人・日朗上人の作と伝えられ、30日の日を限って願を掛ければ願いが叶うとされることから「日限祖師」として信仰を集める。

本覚寺の御首題

  • 日限本覚寺の御首題

本覚寺の御首題。中央上の朱印はよく見えないが「日限祖師」のようである。中央下の朱印は「日限祖師 本覚寺」、左下は「日限祖師」。

本覚寺について

山号 龍鳴山(りゅうめいざん)
寺号 本覚寺(ほんがくじ)
院号
通称 日限〔ひぎり〕本覚寺
御本尊 三宝尊
祖師像 日限祖師 日限満願祖師
所在地 東京都台東区松が谷二丁目8番15号
創建年代 天正19年(1591)/一説に永禄元年(1558)
開山 上行院日覚上人
開基 関根卯兵衛
宗派等 日蓮宗

覚え書き

日限〔ひぎり〕のお祖師様として今も広く信仰を集める。山号は龍鳴山だが、古くは龍嶋山と称した時期もあったらしい。

開山の上行院日覚上人は徳川家康の政治顧問の一人として、江戸入府の際、三河から随伴したという。天正19年(1591)日本橋馬喰町に寺地を賜り、本覚寺を開創したとされるが、永禄元年(1558)三河で創建され、江戸に移転したという説もある。寺の建立に当たって寄進をした関根卯兵衛を開基とする。

明暦3年(1657)明暦の大火(振袖火事)で堂宇を焼失し、現在地に移転再建された。境内には本堂、祖師堂、釈迦堂、摩利支天堂、毘沙門堂などが建ち並んでいたというが、その後もたびたび火災に遭った。明治35年(1902)に入山した智鳳院日透上人は、読経一本で疲弊していた本覚寺を再興、以来、現在に至るまで祖師堂での常経の伝統が保たれている。

祖師堂に祀られている祖師像は、日蓮六老僧の一人で師孝第一といわれた日朗上人が刻んだものと伝わる。30日の日を限って願をかければ願いが叶うということから、日限祖師あるいは日限願満祖師として知られる。

文永8年(1271)日蓮聖人は佐渡へ流罪となり、日朗上人は鎌倉の宿谷光則の屋敷(現在の光則寺)の土牢に幽閉された。師が佐渡へ流されることを知った日朗は、三十日を限って、師に拝顔し、その辛苦を慰めることができるよう祈願した。その甲斐あってか、牢番がその志を憐れみ、ひそかに牢を出て佐渡へ赴くことができた。日蓮聖人に会った日朗は、師の姿を刻んで鎌倉に持ち帰り、3年間、日蓮聖人御自身に対するように仕えたという。

その後、日朗はこの像を平賀(現在の松戸市平賀)に住む一人の孝行息子に与えた。その父親が病に苦しんでいたとき、この孝行息子が日を限って祈願すると、父親の病がたちまち回復した。人々はその霊験に驚き、日限願満の祖師として知られるようになったと伝えられる。

境内には本堂・祖師堂のほか、鬼子母尊神堂・七面大明神・福徳稲荷大明神・蟇大明神などがあり、それぞれ人々の信仰を集めている。

福徳稲荷大明神は延喜5年(905)に勧請されたものと伝えられる。現在の社殿は昭和59年(1984)に再建されたものである。

蟇大明神は、天保の頃、檀家の秋山某なる人物が家業繁栄を願って蛙蟇塚を建て、代々信仰したことに始まるという。関東大震災で埋没していたが、墓守をしていた関某という人が霊感によって土中より掘り出し、お堂を建てて祀った。

その頃、下谷に住んでいた千八という人が蛙蟇塚に願をかけたところ、その願いが叶った。千八は現在の場所に蟇堂を建て、蟇の分身を与えて霊験あらたかなことを説いた。千八は歌舞をよくし、その方面に知人が多かったことから、花柳界・歌舞演劇界・映画界などの人々を中心に広く信仰されるようになったという。

赤い「蟇大明神」の幟が立ち、千羽鶴がかけられた堂内には大小数多くの蟇の置物が奉納され、今も信仰を集めている様子が窺われる。

写真帖

  • 門前風景

    門前風景

  • 七面大明神

    七面大明神

  • 鬼子母尊神堂

    鬼子母尊神堂

  • 浄行菩薩

    浄行菩薩

  • 福徳稲荷大明神

    福徳稲荷大明神

  • 蟇大明神

    蟇大明神

  • 祖師堂

    祖師堂

  • 祖師堂の扁額

    祖師堂の扁額「日限祖師」

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