祇園祭 後祭の山鉾と休み山の御朱印

橋弁慶山会所飾り

橋弁慶山の会所飾り

祇園祭の宵山期間、各山鉾で御朱印をいただくことができる。以下は平成24年の宵々々山と宵々山でいただいた後祭の山鉾の御朱印である。

当時は前祭と後祭の巡行を合同で行っていたため、宵山期間も同じだった。前祭の山鉾の御朱印と合わせ、二日間で全35基の御朱印をいただくことができた。

平成26年、大船鉾が再興されたのを機に後祭が復活し、宵山期間も分けられた。後祭の宵山期間は7月21日から23日で、後祭に巡行する10基の山鉾と休み山である鷹山の御朱印を集めることができる。鷹山はもともと後祭の山であり、2026年を目途に進められている再興が実現すると、くじ取らずで大船鉾の前を巡行することになっている。

鷹山を含む11基の山鉾のうち、10基の山は四条通の北の中京区内にあり、大船鉾のみが四条通の南にある。

後祭が復活した平成26年に宵々々山を訪れたのだが、人出こそ少ないものの、その分ゆっくりと祭情緒を味わうことができた。この時に大船鉾と布袋山(休み山)の揮毫が入った御朱印をいただくことができたので、それも追加で掲載している。

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後祭の山鉾の御朱印

橋弁慶山

蛸薬師通烏丸西入 橋弁慶町 ※くじ取らず
サイト:橋弁慶山オフィシャルサイト

橋弁慶山

謡曲『橋弁慶』に取材し、五条大橋での弁慶と義経の出会いの場面を表している(一般に義経と弁慶といえば五条大橋を思い浮かべるが、『義経記』では清水観音の境内で出会ったことになっている)。狂言の『鬮罪人』に決まった趣向で出す山として鯉山と橋弁慶山が挙げられており、その伝統の古さを伺うことができる。

明応9年(1500)巡行の順を鬮で決めた時以来、鬮取らずで後祭の先頭を巡行する特権を確保していたが、明治5年(1872)北観音山が復興した際、編成上の理由で北観音山に先頭を譲り、担ぎ山の一番となった。しかし平成24年(2012)、かつてしんがりを務めていた大船鉾が巡行に復帰したのに伴い、約140年ぶりに先頭を巡行することになった。
御利益:疫病除け

橋弁慶山の御朱印

印は五条大橋上の弁慶と義経に「京祇園會 橋辨慶山」。

橋弁慶山

戦前のものと思われる橋弁慶山の御朱印。上のスタンプは色違いだが現在のものとほぼ同じデザイン。下の印は「橋辨慶山」。

北観音山(きたかんのんやま)

新町通六角下ル 六角町 ※くじ取らず
サイト:北観音山六角会

北観音山

新町通には蛸薬師通りをはさんで南北に二つの観音山がある。どちらも囃子方を乗せた曳き山で、楊柳観音を祀り、明治維新までは隔年で交互に出していた。北観音山を「上り観音山」、南観音山を「下り観音山」ともいう。
北観音山は楊柳観音と脇侍として韋駄天を祀る。一見、鉾と変わりないが、鉾柱ではなく真松を立てる。楊柳観音に因み、山の右後方に柳の大枝を垂らす。
明治5年(1872)以来、くじ取らずで後祭の先頭を巡行したが、平成24年(2012)かつてしんがりを務めていた大船鉾が巡行に復帰したのに伴い、橋弁慶山が先頭に戻り、北観音山はその次となった。
御利益:疫病除け

北観音山の御朱印

右のページ、上の印は八坂神社の神紋である祇園木瓜と三つ巴、下は六角形に「北」と「観音山」、柳。左のページは「北観音山」と六角形に柳と「北観音山之印」。六角形は亀甲ではなく、町名の六角町に因むものと思われる。

鈴鹿山(すずかやま)

烏丸通三条上ル 場之町

鈴鹿山

鈴鹿峠で旅人に害をなす悪鬼を退治した鈴鹿明神(瀬織津姫神。鈴鹿権現ともいう)を祀る。御神像は金の立烏帽子をつけ、右手に中啓(扇)、左手に大長刀を持ち、腰に太刀を佩く。面をつけるため素顔は見えないが、祇園祭の御神体人形でも随一の美人という。巡行の際、真松に多数の絵馬がつけられ、巡行後に盗難除けのお守りとして授与される。
御利益:雷除け・安産

鈴鹿山の御朱印

上の印は「鈴鹿山」、下は「鈴鹿山之印」。

浄妙山(じょうみょうやま)

六角通烏丸西入 骨屋町
サイト:浄妙山保存会

浄妙山

『平家物語』の宇治川の合戦を題材とする。以仁王を奉じた源頼政は、橋板を外した宇治橋で平家の大群を迎え撃った。この時、源氏方についた三井寺の僧兵・浄妙は橋桁の上を渡りながら奮戦しつつ、一番乗りをしようとした。ところが、すぐ後ろにいた一来法師が「悪(あ)しゅう候、浄妙坊」と言って、浄妙の頭に手をついて飛び越え、先陣を果たしたという。その一来法師が浄妙を飛び越える瞬間を表している。「悪しゅう候山」とも呼ばれた。
御利益:勝守

浄妙山の御朱印

上の印は浄妙の上を飛び越える一来法師と「浄妙山」、下は「浄妙山之印」。

黒主山(くろぬしやま)

室町通三条下ル 烏帽子屋町
サイト:公益財団法人 黒主山保存會

黒主山

謡曲『志賀』を題材とし、六歌仙の一人・大友黒主が桜を見上げている姿を表すが、西行という説もある。山に飾られる桜の造花は悪事除けとして人気が高く、翌年の厄除け粽に添えて授与されるとのこと。

黒主山の御朱印

印は桜と流水、「黒」の字、八坂神社の神紋の組み合わせに「祇園山鉾 黒主山」。

南観音山(みなみかんのんやま)

新町通蛸薬師下ル 百足屋町 ※くじ取らず
サイト:京都祇園祭 南観音山の一年

南観音山

北観音山と同じく、楊柳観音を祀り、囃子方を乗せる曳き山である。明治維新までは隔年で交互に巡行していた。北観音山が「上り観音山」とも呼ばれるのに対し、南観音山は「下り観音山」という。宵山の夜の「あばれ観音」でも知られる。
南観音山は楊柳観音と脇侍として善財童子を祀る。鉾柱ではなく真松を立て、右後方に柳の大枝を垂らすのは北観音山と同じである。
明治に毎年巡行するようになってからは、後祭のしんがりを務めてきたが、平成24年(2012)本来のしんがりであった大船鉾が巡行に復帰したのに伴い、行列の中程に移動したようである。
御利益:疫病除け

南観音山の御朱印

印は山の左半分とシンボルである柳、そして「祇園祭」「南観音山」。

鯉山(こいやま)

室町通六角下ル 鯉山町
サイト:鯉山町衆

鯉山

黄河の中流、龍門の瀧を登った鯉は龍になって昇天するという「登龍門」の説話を題材とする。勇壮な大鯉は左甚五郎の作と伝えられる。
御利益:出世開運

鯉山の御朱印

右ページの印は八坂神社の神紋と瀧を登る鯉、「鯉山」。左ページは右上と下が「鯉山」、左上が「登龍門」。印の数が多いので二ページに分けたが、一ページにまとめたほうが見栄えがよかったようにも思われる。

八幡山(はちまんやま)

新町通三条下ル 三条町

八幡山

町内にある八幡宮を勧請した山。この八幡宮は六条醒ヶ井にあった若宮八幡宮社(六条八幡、現在は東山区五条橋東五丁目に鎮座)から分祀されたものと伝えられる。
この山には人形ではなく、流造総金箔磨き仕上げの社殿を安置し、八幡神を祀る。お前立ちとして、馬上八幡の木像を置く。鳥居の上に向かい合ってとまる神使の鳩は左甚五郎の彫刻と伝えられる。
御利益:夜泣き封じ

八幡山の御朱印

右上の印は向かい合った鳩と「祇園祭」、左上は「八幡宮神璽」、下は「八幡山」で、八の字が鳩文字になっている。

役行者山(えんのぎょうじゃやま)

室町通三条上ル 役行者町
サイト:公益財団法人 役行者山保存会

役行者山

修験道の祖・役行者と一言主神、葛城神の三体を安置し、役行者が一言主神を使って葛城山と大峰山の間に橋を架けたという故事を表す。一般的には一言主神と葛城神は同一とされることが多いが、この山では別の神とされている。山伏山と同じく修験道に関するテーマであるため聖護院との関わりが深い。大半の山は吉符入りの清め祓いに八坂神社の神職を迎えてお祓いを受けるが、この山では7月16日に聖護院から山伏が参集して採燈護摩供を行うのみという。
御利益:疫病除け・交通安全

役行者山の御朱印

上の印は八坂神社の神紋である祇園木瓜と聖護院系の修験道で尊重される輪宝紋の組み合わせ、中央はやはり修験道と関わりの深い法螺貝(聖護院の寺紋は十六弁の菊と法螺貝を組み合わせた菊法螺)に「役行者山」、下は「役行者山」。

大船鉾(おおふねほこ)

新町通四条下ル 四条町 ※くじ取らず
サイト:公益財団法人 四条町大船鉾保存会

大船鉾

応仁の乱以降、船型の鉾は船鉾町の船鉾と四条町の大船鉾の二基があり、それぞれ先祭と後祭のしんがりを務めていた。どちらも神功皇后の三韓征伐を題材としているが、船鉾が出陣を表すのに対し、大船鉾が凱旋を表すとされ、かつては凱旋船鉾とも呼ばれた。四条町はかつて南北に分かれていて隔年で交互に巡行を受け持ち、北四条町が出すときは舳先に龍頭を、南四条町が出すときは大金幣を掲げて巡行したという。
元治元年の兵火(どんどん焼け)で木組みや車輪を焼失、長く休み山鉾として巡行せず、幸いにも焼け残った神面や大金幣、懸装品を宵山に飾り居祭を続けてきた。平成7年(1995)にはそれも休止するが、同9年(1997)宵山の囃子が約130年ぶりに復活、同18年(2006)には宵山の飾り席も復活。さらに同24年(2012)には唐櫃巡行として140数年ぶりに後祭のしんがりを務めた。
御利益:安産

大船鉾の御朱印

上の印は緑で青海波、鉾の車輪、「舩」「大舩鉾」「四条町」の組み合わせ。下は幸野楳嶺の描いた焼失前の大船鉾と同じく「舩」「大舩鉾」「四条町」の組み合わせ。

平成26年、大船鉾の復活

大船鉾

平成26年、150年ぶりに大船鉾が復活した。サイズは船鉾の1.126倍とのことである。この年は焼け残った大金幣を舳先に掲げて運航したが、平成28年には龍頭も復元された。

大船鉾の御朱印

従来の御朱印とは別に、墨書入りの御朱印を授与するようになったようだ。印は飛龍に「大舩」、墨書は「神功皇后」「四条甼」。

休み山の御朱印

布袋山(ほていやま)

蛸薬師通室町西入 姥柳町
サイト:布袋山保存会

布袋山

前祭の山で、前祭の山鉾町としてはもっとも北にある。明応9年(1500)の鬮定めにその名が見える。中国製の布袋像を山棚に飾っていたが、すでに宝暦年間には(1751~64)には巡行に参加していなかったようである。天明8年(1788)の大火のため、布袋像だけが焼け残ったとも、像も焼失したともいわれる。現在は高さ15cmほどの布袋像を会所飾りで祀る。

布袋山の御朱印

上の印は「布袋山」、下は払子を持った布袋像に「布袋山」。会所飾り・御朱印の授与は夕刻のみのようである。

布袋山の御朱印

平成25年頃から墨書を入れるようになったようである。前祭だけではなく後祭の宵山でも粽・護符・安産お守りや御朱印の授与を行っていたので、いただくことができた。

印は従来と同じ。墨書は中央に「布袋山」、右に「復興祈願」、左に「洛中うばやなぎ町」。

鷹山(たかやま)

三条通室町西入 衣棚町
サイト:公益財団法人 鷹山保存会

鷹山

籤取らずで、後祭の大船鉾の前を巡行する曳き山だったという。文政9年(1826)大雨で懸装品が損傷したため翌年から巡行できなくなった。さらに元治元年(1864)の禁門の変の兵火で山の大半が焼失したという。
鷹匠・犬飼い・樽を背負い、隠れて粽を食う従者という三体の人形を乗せていた。現在も三体の人形は残り、宵山には会所飾りが行われる。従者はからくり仕掛けで粽を持つ手が口元まで動くという。一説には鷹匠は在原行平、犬飼は在原業平、従者は在原遠膽で、光孝天皇の芹川行幸に供奉する行平を表したものと伝えられる。

最後の巡行から200年目に当たる2026年を目標に復興を目指しており、その第一歩として平成26年(2014)囃子方が復活した。

鷹山の御朱印

印は三体の人形と「鷹山」、行平が芹川行幸に際して狩衣に書き付けたという「翁さび 人なとがめそ狩衣 けふばかりとぞ鶴も鳴くなる」の歌。

祇園祭 前祭の山鉾の御朱印

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