妙祐山 幸龍寺(田甫の幸龍寺)

田甫の幸龍寺

名称 妙祐山 幸龍寺
通称 田甫の幸龍寺
所在地 東京都世田谷区北烏山5-8-1 [Mapion|googlemap]

【略縁起】
天正7年(1579)浜松城で徳川秀忠が誕生した際、乳母となった大姥ノ局が秀忠のために一字を建立することを家康に願い出て創建された。家康の江戸入府に従って湯島に寺地を与えられ、その後、浅草に移転した。浅草田甫と呼ばれた現在の浅草ビューホテルの辺りにあったことから田甫〔たんぼ〕の幸龍寺の通称がある。徳川家と関わりが深く、浅草でも屈指の大寺院であった。

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幸龍寺の御首題

  • 田甫の幸龍寺の御首題

御題目の両脇に「如説修行」「功徳甚多」。朱印は中央・左下ともに「妙祐山幸龍寺」。

幸龍寺について

山号 妙祐山〔みょうゆうざん〕
寺号 幸龍寺〔こうりゅうじ〕
院号
通称 田甫の幸龍寺
御本尊 三宝尊
所在地 東京都世田谷区北烏山五丁目8番1号
創建年代 天正7年(1579)
開山 玄龍院日椿上人
開基 正心院殿日幸尼(大姥ノ局、徳川秀忠の乳母)
宗派等 日蓮宗

覚え書き

世田谷区の烏山寺町にあるが、元は現在の浅草ビューホテルの所にあった。往時、浅草寺裏の一帯には水田が広がり「浅草田甫〔あさくさたんぼ〕」と呼ばれていたことから、「田甫〔たんぼ〕の幸龍寺」と通称された。

天正7年(1579)4月、浜松城に後の二代将軍・徳川秀忠が誕生した。乳母となった大姥ノ局(正心院殿日幸尼)は、浜松城主であった徳川家康に、秀忠のために寺を建立することを願い出た。そこで家康は玄龍院日椿上人を開山に招き、城外に一寺を創建して祈祷所とした。これが幸龍寺の起こりである。

家康が居城を駿府に移すと、幸龍寺もこれに従って移転。さらに天正19年(1591)家康が江戸に入府すると神田湯島に寺地を与えられた。その後、浅草に移転した。

徳川秀忠の正室が懐妊した際には継嗣の出産と安産の祈祷を命じられ、後の三代将軍・家光が誕生すると奉賽として鬼子母神及び十羅刹女像、さらに朱印地50石を寄進された。さらに五代将軍綱吉の時、朱印地は150石に加増。また順性院殿日円大姉(徳川家光の側室・お夏の方。甲府宰相・徳川綱重の母、六代将軍家宣の祖母)の霊殿が設けられ、徳川家の香華院となった。

浅草でも屈指の巨刹で、塔頭8ヶ寺を擁し、谷中の宗林寺・本所の法恩寺とともに京都・本圀寺の触頭でもあった。

大正12年(1923)関東大震災のために焼失、昭和2年(1927)千歳村烏山の現在地に移転した。跡地には昭和12年(1937)国際劇場ができ、同57年(1982)に閉鎖された後は浅草ビューホテルが建っている。

幸龍寺23世の高佐日煌上人は九識霊断法を創始、日蓮宗の有力な伝道集団である霊断師会を創立し、現在、幸龍寺に本部が置かれている。

山門をくぐると、右手に柏原大明神と清正公大神祇(加藤清正)を祀るお堂がある。柏原大明神は、江戸時代、頭痛に霊験があるとして信仰を集めたという。

写真帖

  • 山門

    山門

  • 柏原大明神・清正公大神祇

    柏原大明神・清正公大神祇

  • 浄行菩薩堂

    浄行菩薩堂

  • 手水舎

    手水舎

  • 手水舎

    鐘楼

  • 本堂

    本堂


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