福生神明社

福生神明社

(平成29年撮影)

福生神明社は、明治7年(1874)清の丘の神域に村内各部落の鎮守を合祀し、福生村の村社として創建された。元から清の丘に祀られていた両体権現社の伊弉諾尊・伊弉冉尊、加美の神明社の天照大神を中心に七柱の神々を祀る。昭和47年(1972)現在の社殿を造営、その際、境内社・八雲神社の素盞嗚尊を本殿に合祀した。

正式名称 神明社〔しんめいしゃ〕
通称 福生神明社〔ふっさ しんめいしゃ〕
御祭神 天照大神 伊弉諾尊 伊弉冉尊 〈合祀〉弥津波能売尊 豊宇気比売尊 大山咋尊 菅原道真 〈八雲神社〉素盞嗚尊 
社格等 旧村社
鎮座地 東京都福生市福生1081 [Mapion|googlemap]
最寄り駅 福生(JR青梅線)
バス停:長沢
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御朱印

  • 福生神明社の御朱印

    (1)

  • 福生神明社の御朱印

    (2)

(1)平成17年拝受の御朱印。朱印は「神明社印」。

(2)平成29年拝受の御朱印。朱印は「神明社印」だが、新しいものになっている。

御由緒

御祭神

御祭神は明治7年(1874)に合祀された7柱の神々と、同じ時に神明社境内に遷座して境内社となり、現在は本殿に合祀されている八雲神社の素盞嗚尊である。表記は『平成「祭」データ』に従い、括弧内に神社でいただいた暦の由緒書による表記を記す。

《主祭神》
・天照大神(天照皇大神)
・伊弉諾尊(伊邪那岐神)
・伊弉冉尊(伊邪那美神)
《合祀》
・弥津波能売尊(禰津波能賣神)
・豊宇気比売尊(豊宇気比賣神)
・大山咋尊(大山咋神)
・菅原道真(菅原道真公)
《八雲神社》
・素盞嗚尊(素盞嗚尊)

御由緒

福生神明社は、明治7年(1874)清の丘の神域に祀られる両体権現社に、村社神明社をはじめ福生村内各部落に祀られていた5社の神々を合祀し、福生村の村社として創建された。地元ではこの時の合祀を「神寄せ」と呼ぶ。

明治15年(1882)9月、社殿を改築した。それまで南面していた社殿を西向きに改め、南側の墓地入口から通じていた参道も現在の西参道石段に付け替えられた。社殿背後(東側)には杉の森があったという。

昭和47年(1972)現在の社殿を造営。境内東側に新奥多摩街道からの参道が設けられ、社殿は再び南向きに改められた。また、境内社の八雲神社が本殿に合祀された。

補足

神社明細帳は、御祭神を天照大神一柱、由緒を不詳としている。また、昭和13年(1938)に刊行された東京府の『市町村概観』は、やはり御祭神を天照大神一柱とし、「創立年不詳、明治6年12月村社に列し、本社及び拝殿を明治十五年九月建築す」とする。

所在地は現在と同じく旧両体権現社の場所だが、事実上神明社のみが存続しているような扱いで、しかも『市町村概観』の記述が正しければ、神明社の村社列格も合祀の前年ということになる。

福生の「神寄せ」は一村一社令に基づいて行われたという記述が見られるが、内務省が一村一社令を出したのは明治39年である。また、一村一社令に基づいて合祀が行われた場合、神社明細帳には合祀された神社の御祭神を記載するのが通例である。福生神明社の神寄せはかなり変則的で、村内の事情で自主的に行われたものではないかと考える。

明治7年当時、福生村内で神職がいた神社は、旧別当の宝蔵院住職が復飾して神職となっていた神明社だけであった。一方、福生村草創の時に祀られたと伝えられ、総鎮守的な役割を担っていた両体権現社は村持ちで、祭礼時のみ僧侶(宝蔵院であろう)が神事を行っていた。神寄せの前年に神明社が村社に定められたとすると、神職の存在が大きな要因であったと思われる。

しかし、神明社は村全体の鎮守というわけではなく、また社地も村のはずれであった。神明社の氏子以外にとっては不満もあったと考えられる。そこで、神明社を含む各部落の鎮守を両体権現社に集め、新たな総鎮守としたのであろう。神社合祀の手続きが確立した後の事務的な合祀と異なり、「神寄せ」という言葉の響きが示すように、それぞれの氏神を神明社の御祭神・天照大神に統合するような認識で行われたのではないかと想像する。神社明細帳での御祭神が天照大神一柱になっているのは、そのためではないだろうか。

神社明細帳に訂正された形跡がなく、昭和13年時点でも御祭神を天照大神のみとしているので、合祀された神々が公式に御祭神として復活したのは戦後のことではないかと思われる。

神寄せで合祀された神社

明治7年(1874)の神寄せで合祀された神社は、以下の通りである。(※参考資料:『福生町史』『福生市史』他)

神明社

御祭神は天照皇大神。元は加美の新堀橋西側、現在は金毘羅大権現がある場所に八雲神社(天王宮)とともに鎮座していた。旧別当は宝蔵院(廃寺)だが、明治2年(1869)当時の住職が復飾して神明社の神職となった。明治6年(1873)村社に列格。

両体明神社

御祭神は伊弉諾尊・伊弉冉尊で、元から長沢の現社地に鎮座していた。安永2年(1773)の『真光仏言夢物語』には、福生村が開かれたとき、草分けの浪人・清水但馬らが長沢に両体権現を祀り、本地薬師如来を迎えたとある。『日本歴史地名大系 東京都の地名』によれば、古来、村の緊急時には薬師堂で会合が行われたという。

天神社

御祭神は菅原道真。加美にあり、神明社と同じく宝蔵院が別当を務めていた。天神講が営まれ、神寄せの後も社は護持されている。

堰上明神社

御祭神は弥津波能売尊で、『新編武蔵風土記稿』にある関上明神社のことと思われる。風土記稿によれば、昔、洪水の時に流れ着いた御神体を村人が古堰の上で見つけ、堰と関は読み方が同じであることから関上明神として祀ったという。

稲荷社

御祭神は豊宇気比売尊。『新編武蔵風土記稿』に「小名原ヶ谷戸ニアリ」と記されている。享和3年(1803)以前、原ヶ谷戸組16軒の鎮守として勧請したという。

熊野山王稲荷三社合殿

大山咋尊が三社のうちの山王社の御祭神に相当すると思われる。伊弉冉尊が熊野社、豊宇気比売尊が稲荷社の御祭神で重複しているのかも知れないが、未確認。

八雲神社

御祭神は素盞嗚尊。江戸時代までは天王宮と称し、御祭神を牛頭天王としていたが、明治元年の神仏判然令により改められた。元は加美の神明社境内に祀られていたが、明治7年(1874)の神寄せの際に両体権現社(新しい神明社)境内に遷座し、昭和47年(1972)本社の社殿が新築された際に合祀された。
夏の八雲祭は八雲神社の祭礼で、古くは天王祭と称していた。多数の神輿や山車が繰り出し、福生を代表する祭となっている。

写真帖

  • 福生神明社西参道の一の鳥居

    西参道の一の鳥居

  • 福生神明社西参道の二の鳥居

    西参道の二の鳥居

  • 福生神明社東参道の鳥居

    東参道の鳥居

  • 福生神明社手水舎

    手水舎

  • 福生神明社長沢稲荷大明神の鳥居

    長沢稲荷大明神の鳥居

  • 福生神明社長沢稲荷大明神

    長沢稲荷大明神

  • 福生神明社神楽殿

    神楽殿

  • 福生神明社拝殿

    拝殿

  • 福生神明社社号標

    社号標

  • 福生神明社本殿

    本殿

  • 福生神明社薬師堂

    長沢薬師堂

メモ

JR福生駅から歩いて5分ほど、新奥多摩街道沿いの福生消防署の向かいに鎮座する。新奥多摩街道側(東側)に大きな鳥居と社号標が建っているが、元は西側が表参道だったようである。その西参道の脇に長沢薬師堂がある。両体権現社の本地仏・薬師如来を祀るが、現在は臨済宗長徳寺の境外仏堂となっている。

神明社境内には多くの梅の木が植えられ、福生十景にも選ばれた梅の名所であった。平成21年の3月、何も知らずに2度目の参拝をして、境内に咲き乱れる梅の花に感銘を受けた。

平成29年2月、もう一度神明社の梅を見ようと思って参拝した。ちょうど梅まつりが行われているところだったのだが、プラムポックスウイルスに感染したことが確認されたため、梅まつり終了後にすべて伐採されるとの掲示があった。神社の方にうかがったところ、いずれ再度植樹するにせよ、現在のような景観に戻るには数十年はかかるだろうとのこと。残念なことではあるが、梅の花が咲き乱れる最後の姿を見ることができた。ずっと見たいと思っていたので、神様が呼んでくださったのであろうか。

福生神明社の概要

名称 神明社
通称 福生神明社
御祭神 天照大神〔あまてらすおおみかみ〕
伊弉諾尊〔いざなぎのみこと〕
伊弉冉尊〔いざなみのみこと〕
〈合祀〉
弥津波能売尊〔みつはのめのみこと〕
豊宇気比売尊〔とようけひめのみこと〕
大山咋尊〔おおやまくいのみこと〕
〈八雲神社〉
素盞嗚尊〔すさのおのみこと〕
鎮座地 東京都福生市福生1081番地
創建年代 不詳/明治7年(1874)合祀
社格等 旧村社
例祭 9月19日
神事・行事 1月1日/元旦祭・新年特別祈祷祈願
4月3日/春季例祭
8月1日/八雲神社大祭
11月23日/新穀感謝祭
12月31日/大祓い

交通アクセス

□JR青梅線「福生駅」より徒歩5分。


※掲載の情報は最新のものとは限りません。ご自身で確認をお願いします。

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