康元元年(1256)池上宗仲が鶴岡八幡宮の御分霊を勧請したことに始まる。弘安5年(1282)日蓮聖人を迎えて池上本門寺の開堂供養を行った際、改めて当社の開眼供養を行った。以来、池上本門寺の鎮守として代々の貫主の崇敬を受けた。天正9年(1581)本門寺の伽藍造営に際し、現社地に遷座した。
正式名称 | 八幡神社〔はちまんじんじゃ〕 |
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通称 | 子安八幡神社 根方八幡 |
御祭神 | 誉田別命 〈配祀〉大比留姫命 大己貴命 倉稲魂命 |
社格等 | 旧村社 |
鎮座地 | 東京都大田区仲池上1-14-22 [Mapion|googlemap] |
御朱印
平成17年拝受の御朱印。中央の朱印は「子安八幡神社」。
御由緒
康元元年(1256)池上宗仲が鶴岡八幡宮の御分霊を勧請したことに始まると伝えられる。由緒に因んで子安八幡、また池上村根方に鎮座することから根方八幡と通称される。旧別当は隣接する日蓮宗の林昌寺。
伝承によれば、康元元年6月14日、鎌倉の鶴岡八幡宮の社殿が震動した。この時、池上宗仲の邸内にあった御幣が、毎夜、光を放った。宗仲は鶴岡八幡宮の影向であることを悟り、小さな社殿を建立して御幣を納めた。場所は現在の池上本門寺本堂影堂の背後であったという。
正嘉2年(1258)天災や疫病が相次ぎ、宗仲の妻が懐妊の上疫病を患った。宗仲が神前に病気平癒と安産を祈願したところ、病は癒え、無事に男子を出産したという。里人が当社を子安八幡と称し、池上郷の鎮守として崇敬するようになったのはこれに因むと伝えられる。
後に宗仲は深く日蓮聖人に帰依し、建治元年(1275)邸内に本門寺を開創した。
弘安5年(1282)9月18日に日蓮聖人が池上氏の邸に到着。同月23日に本門寺の開堂供養を行い、さらに28日、当社の八幡大菩薩の開眼供養を行った。以来、池上本門寺の鎮守として、代々の貫主から篤く崇敬された。
天正9年(1581)現社地に遷座。大坊本行寺(池上本門寺の三院家の一で、池上邸の跡にあり、日蓮聖人入滅の地とされる)第13世蓮乗院日侊が、当社が仏地となった本山の地にあることに恐懼し、上池上山の浄地(現社地)を選んだという。
また一説には、本門寺の伽藍造営にあたり、当社を尊崇する綱嶋左近が願い出、同人の土地である現社地に遷し祀ったとも伝えられる。どちらか一方が正しいというわけではなく、本行寺の日侊上人が遷座する土地を探しているときに、綱嶋左近が土地の寄進を申し出たということなのかも知れない。
当時は大比留姫尊を御祭神とし、子安八幡と称して安産の守札を授与していたという。明治6年(1973)改めて誉田別命を御祭神とし、村社に列格した。
旧社殿は天保14年(1843)の造営であったが、大正14年(1925)の火災で焼失。昭和2年(1927)現在の鉄筋コンクリート造の社殿が再建された。この時、類焼した末社・稲荷神社と疱瘡神社を本殿にに仮合祀した。現在もそのままになっていると思われる。
写真帖
メモ
小高い丘の上に鉄筋コンクリート造の社殿が鎮座する。近くで見ると塗装が剥落し、痛んでいる印象があるが、建造が昭和2年(1927)と非常に古い。同じ鉄筋コンクリート造でも、国の登録有形文化財になった神田神社の社殿が昭和9年(1934)、それより早い椙森神社や猿江神社でも昭和6年(1931)なので、神社建築としては最初期のものということになるのではないだろうか。
子安八幡神社の概要
名称 | 八幡神社 |
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通称 | 子安八幡神社 根方八幡 |
御祭神 | 誉田別命〔ほんだわけのみこと〕 〈配祀〉 大比留姫命〔おおひるめのみこと〕 大己貴命〔おおなむちのみこと〕 倉稲魂命〔うかのみたまのみこと〕 |
鎮座地 | 東京都大田区仲池上一丁目14番22号 |
創建年代 | 康元元年(1256) |
社格等 | 旧村社 |
例祭 | 9月第1土・日曜日 |
神事・行事 | 1月1日/歳旦祭 2月3日/節分祭 2月上午の日/初午祭 2月11日/紀元祭 2月24日/祈年祭 3月春分/春分祭 6月30日/大祓 9月秋分/秋分祭 10月17日/神嘗祭当日祭 11月3日/明治祭 11月23日/新嘗祭 12月31日/大祓式・除夜祭 |
交通アクセス
□都営浅草線「西馬込駅」より徒歩約10分
□JR東海道本線・京浜東北線「大森駅」よりバス
■東急バス森06・森07系統上池上循環「八幡神社」下車、徒歩約1分