隅田川七福神は文政7年(1818)頃の開創とされ、谷中七福神や元祖山手七福神と並んで江戸でも古い七福神霊場の一つである。古くは向島七福神、墨田七福神などとも呼ばれていたようだが、現在では隅田川七福神を正式名称とする。
■三囲神社:大国神・恵比寿神
■弘福寺:布袋尊
■長命寺:弁財天
■向島百花園:福禄寿
■白鬚神社:寿老神
■多聞寺:毘沙門天
以上の向島近辺にある2社3ヶ寺と庭園1ヶ所で構成される。
隅田川七福神について
隅田川七福神の開創については、次のような話が伝わっている。
江戸の骨董商で和学者の佐原鞠塢〔さはら きくう〕が開いた向島百花園には、大田南畝、加藤千蔭、村田春海、酒井抱一ら当時の江戸を代表する文人墨客らが集まっていた。
ある時、これらの人たちが鞠塢愛蔵の福禄寿に目をつけ、向島近辺の神社仏閣で七福神を揃えて新春の楽しみとすることを思いついた。そして多聞寺の本尊・毘沙門天、長命寺の長命水に祀られた弁財天、三囲神社境内の恵比寿・大國、弘福寺に祀られた布袋尊までは揃ったものの、寿老人だけは見つからなかった。
そこで、百花園のある寺島村の鎮守は白鬚明神であり、白髭というからには白い髭の老翁であろうから寿老人に相応しいと機知を働かせ、めでたく七福神が揃ったという。いかにも江戸の風流人たちらしい話である。
ただし、大田南畝は天明4年(1784)の黄表紙『返々目出鯛春参〔かえすがえす めでたい はるまいり〕』で江戸の七福神を選び、不忍池の弁財天や善国寺の毘沙門天などとともに向島の白鬚大明神を寿老人としているので、むしろ隅田川七福神の開創より白鬚神社を寿老人とするほうが先行しているという指摘もある。
隅田川七福神の開創年代については、佐原鞠塢が百花園を開設した文化元年(1804)以降であることは間違いないが、大正7年(1918)に「隅田川七福神百年記念」という扇子が作られていることから、文政元年(1818)頃であろうと考えられている。
幕末から明治にかけて一時寂れるが、明治31年(1898)に「七福会」が再興され、明治41年には榎本武揚ら当時の名士の揮毫による七福神碑が建立されるなど次第に復興した。現在では東京を代表する七福神として賑わっている。道筋には今も下町情緒が残り、見どころも多い。
参拝は平成19年の1月3日、三囲神社から参拝した。巡拝の人が多く、向島百花園では結構な行列ができていた。
巡拝情報
御開帳は元旦から1月7日。御朱印は通年対応している寺社もあるが、多聞寺は7日までしか授与しない。百花園もこの期間のみと思われる。スタンプは通年対応のようである。
時間は元旦が午前0時から夕刻まで、2日以降は9時~17時。ただし、百花園の開園時間は午前9時から16時30分なので注意が必要である。また、百花園は入園料150円(65才以上70円、小学生以下無料)が必要だが、三が日は無料になる。
各寺社はほぼ隅田川沿いに点在している。かつては海から宝船が上がることに見立て、川下の三囲神社から川上の多聞寺に向かって参拝したともいうが、現在では多聞寺から三囲神社に向かう人も多いという。
所要時間は徒歩で2~3時間程度。ただ、白髭神社から多聞寺は徒歩で30分ほどかかるため、この区間をバスで移動する人もいるようだ。
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三囲神社(恵比寿神・大国神)
■三囲神社
御祭神:宇迦之御魂命
札所本尊:恵比寿神・大国神
創建年代:不詳
社格等:旧村社
鎮座地:東京都墨田区向島2-5-17 [Mapion|googlemap]
紹介サイト:http://www.mitsuipr.com/special/spot/09/(三井広報委員会)
御由緒
三囲神社は、文和年間(1352~56)三井寺の僧・源慶が弘法大師創建という社を再興したものと伝えられる。源慶が社を修築していると、地中から壺が見つかり、狐に乗った老翁の神像が出てきた。するとどこからともなく白狐が現れ、神像の周りを三度巡って立ち去ったので、「みめぐり」と称するようになったという。
元禄6年(1693)の干魃の際、俳人の宝井其角が能因法師の故事に倣って俳句を奉納したところ、翌日に雨が降った。これが評判となり、広く信仰を集めるようになったという。
京都の豪商・三井家が江戸に進出した際、店を構えた日本橋の鬼門にある三囲神社を守護神とした。三囲は三井に通じ、「井」を囲むことから三井を守ると考えたことによるともいう。以来、三井家との関わりが深く、境内にはゆかりの社や石碑も多い。
因みに日本橋三越の屋上には三囲神社の御分社が祀られている。現在、日本橋三越の新春の七福神詣は日本橋七福神の巡拝になっているが、かつては三越店内の各階に祀られた七福神を巡拝し、最後に屋上の三囲神社に参拝するというものであった。
隅田川七福神の恵比寿神と大国神は境内社に奉安されているが、これも元は越後屋(現在の日本橋三越)に祀られていた御神像と伝えられる。また、御神像を安置する内社殿は文久3年(1863)三井家が寄進したもので、清水組(現在の清水建設)の棟梁・二代清水喜助の作である。
七福神碑
三囲神社の七福神碑は、第80代出雲国造で、出雲大社教を創始し、さらに政治家としても活躍した千家尊福による「恵比寿 大國 二神」。
御朱印
平成19年拝受の御朱印。揮毫は「大國神 恵比寿神」。右上の朱印は「角田川七福詣」、左下は「三囲神社」。
アクセス
□弘福寺(布袋尊)より徒歩5分
□東武スカイツリーライン「とうきょうスカイツリー駅」より徒歩8分
□都営浅草線「本所吾妻橋駅」より徒歩10分
□東京メトロ半蔵門線・都営浅草線・京成押上線「押上駅」より徒歩11分
弘福寺(布袋尊)
■牛頭山 弘福寺
御本尊:釈迦如来
札所本尊:布袋尊
創建年代:延宝元年(1673)
開山:鉄牛道機禅師/開基:稲葉正則公
宗派:黄檗宗
所在地:東京都墨田区向島5-3-2 [Mapion|googlemap]
公式サイト:http://ko-fukuji.wixsite.com/kofukuji
略縁起
牛頭山弘福寺は、延宝元年(1673)隅田善左衛門村の高森山にあった香積山弘福寺を現在地に移し、黄檗宗の寺としたことに始まる。開山の鉄牛禅師は、黄檗山萬福寺の二代住職・木庵禅師に嗣法し、下総国の椿沼干拓に尽力し、鉄牛禅師の大蔵経開板に協力したことでも知られる。開基は小田原藩主で老中の稲葉正則。
牛頭山という山号は、牛島神社の御祭神・須佐之男命の別名・牛頭天王に因む。当時、牛島神社(牛御前社)は弘福寺の西に隣接しており、古くから地主神として祀られていた。
黄檗宗は江戸時代初めに渡来した明の僧・隠元隆琦を開祖とする中国色の強い禅宗で、弘福寺も大本山萬福寺に倣った唐風結構の七堂伽藍が整えられた。度重なる大火や関東大震災で焼失し、現在の本堂等は昭和8年(1933)に再建されたものだが、他の寺院建築にはあまり見られない黄檗宗独特の建築様式を見ることができる。
布袋尊は唐代に実在したとされる禅僧・釈契此(長汀子とも号した)で、小躯・大腹で杖と布袋を持ち、物をもらえば袋に貯え、困っている人がいるとそれを与えたという。中国では弥勒仏の化身とされ、禅宗寺院では弥勒仏として布袋像を仏堂に安置するのが通例になった。萬福寺をはじめとする日本の黄檗宗寺院でも、その伝統を受け継いで布袋尊の像が祀られている。
弘福寺の布袋尊は、古くは山門に木像が祀られていたが、安政の大地震で失われたために五代将軍綱吉より賜った狩野探幽筆の画像で代用していたという。現在は本堂内に立派な金色の像が祀られている。
七福神碑
弘福寺の七福神碑は、諏訪藩出身の官僚・政治家で大蔵大臣・逓信大臣を歴任した渡辺国武による「布袋尊」。
御朱印
平成19年拝受の御朱印。揮毫は「布袋尊」。中央の朱印は「布袋尊」、右上は鉄鉢に「牛頭山」、左下は唐扇に「弘福寺」。
アクセス
□三囲神社(恵比寿神・大国神)より徒歩5分
□長命寺(弁財天)より徒歩2分
□東京メトロ半蔵門線・都営浅草線・東武スカイツリーライン・京王押上線「押上駅」より徒歩15分
長命寺(弁財天)
■宝寿山 遍照院 長命寺
御本尊:阿弥陀如来
札所本尊:弁財天
創建年代:不詳
開山:不詳
宗派:天台宗
所在地:東京都墨田区向島5-4-5 [Mapion|googlemap]
略縁起
長命寺の創建については詳らかでないが、元は宝樹山常泉寺という小庵だったという。
寛永(1624~45)3代将軍家光が鷹狩りの途中で腹痛を起こし、当寺で休憩した。住職が弁財天に祈願した庭の井戸水で薬を飲むとたちまち快癒したので、その井戸を長命水と名付け、宝寿山長命寺と改めさせたと伝えられる。
境内には江戸時代の文人ゆかりの石碑が数多く残る。区の有形文化財に指定されている芭蕉の句碑「いざさらば雪見にこ路ふ所まで」は、『江戸名所図会』にも記されている。門前の長命寺桜もちは江戸時代からの名物。
弁財天は上記伝承の長命水ゆかりのものであろう。『江戸名所図会』には「牛島弁財天 同じ堂内に安ず。伝教大師の作なり」とある。
七福神碑
長命寺の七福神碑は、有栖川宮家に仕え、後に宮中に入って掌侍・御歌所歌人となった女流歌人・小池道子による「辨財天」。
御朱印
平成19年拝受の御朱印。揮毫は「弁財天」。中央の朱印は宝珠に「満福長命」、右上は白蛇に「弁財天」、左下は琵琶に「長命寺」。
アクセス
□弘福寺(布袋尊)より徒歩2分
□向島百花園(福禄寿)より徒歩15分
□東武スカイツリーライン「曳舟駅」より徒歩10分
□東武スカイツリーライン「とうきょうスカイツリー駅」より徒歩13分
□東京メトロ半蔵門線・都営浅草線・京成押上線「押上駅」より徒歩11分
向島百花園
■向島百花園
札所本尊:福禄寿
開設年代:文化元年(1804)
開設者:佐原鞠塢
所在地:東京都墨田区東向島3-18-3 [Mapion|googlemap]
公式サイト:https://www.tokyo-park.or.jp/park/format/index032.html
歴史
向島百花園は、江戸の骨董商で和学者の佐原鞠塢が開設した庭園である。大名庭園とは違い、当時の一流の文化人たちが造った庶民的で文人趣味のあふれる風流な庭園として知られる。
鞠塢は奥州仙台の出身で、日本橋住吉町で骨董商を営み、当時の一流の文人墨客と交流を持っていた。商売をたたんで本所に隠棲していたが、文化元年(1804)旗本・多賀氏の屋敷跡を買い取って庭園を造った。園内に天神を祀る小堂を建て、つきあいのあった風流人たちの協力を得て360本の梅を植え、亀戸の梅屋敷に対して新梅屋敷と呼ばれた。また花屋敷と呼ばれることもあったようだ。
さらに「春の七草」や「秋の七草」をはじめ、名花名草を集め、季節を通じて楽しめる庭園となった。鞠塢の商才は庭園経営でも発揮され、江戸近郊の行楽地として人気を集めるようになった。
百花園の名は絵師の酒井抱一の命名で、「梅は百花のさきがけ」あるいは「四季百花の咲き乱れる園」の意味といわれる。
明治になり、世の中が変化して人々の嗜好も変わるにつれ、次第に百花園も賑わいを失うようになった。これを支援し、復興させたのが日本の石油王と呼ばれた小倉常吉であった。
昭和13年(1938)東京市に寄付され、翌年より有料で公開開始。昭和53年(1978)には国の史跡・名勝に指定された。庭園としてのみならず、開設当時の地割りを残す文化遺産としても評価が高い。
札所本尊の福禄寿は鞠塢が愛蔵していたもので、園内の祠に祀られている。この福禄寿がきっかけとなり、百花園に集う文人墨客たちによって隅田川七福神が始められたと伝えられる。
七福神碑
向島百花園の七福神碑は、土佐藩出身の志士で、農商務大臣・宮内大臣・皇典講究所所長などを歴任した土方久元による「福禄寿尊」。
御朱印
平成19年拝受の御朱印。揮毫は「福禄寿」。中央の朱印は「福」。右上の印は判読できない。左下は「百華園」。
アクセス
□長命寺(弁財天)より徒歩15分
□白髭神社(寿老神)より徒歩7分
□東武スカイツリーライン「東向島駅」より徒歩8分
□京成押上線「京成曳舟駅」より徒歩13分
白鬚神社(寿老神)
■白鬚神社
御祭神:猿田彦大神、他六柱
創建年代:天暦5年(951)
社格等:旧郷社
鎮座地:東京都墨田区東向島3-5-2 [Mapion|googlemap]
御由緒
白鬚神社は古くから寺島村の鎮守として崇敬され、さらに商売繁盛・方災除け・厄除けの神として広く信仰を集めた。社前には文化12年(1815)に山谷の料亭・八百善の八百屋善四郎、吉原の松葉屋半左衛門が奉納した狛犬が残っており、その信仰の篤さを偲ばせる。
社伝によれば、天暦5年(951)慈眼大師良源(元三大師)が関東に下向した際、神託を受けて近江国比良山の山麓に鎮座する白鬚大明神(滋賀県高島市鵜川の白鬚神社)を勧請したと伝えられる。
百花園に集った江戸の文人たちが隅田川七福神を選んだ折、向島近辺には寿老人が見当たらなかった。そこで機知を働かせ、白鬚大明神なら髭の白い年老いた神様だろうから寿老人に相応しいということになり、七福神が揃ったと伝えられる。
ただ、その中の一人・大田南畝が天明4年(1784)に著した黄表紙『返々目出鯛春参〔かえすがえす めでたい はるまいり〕』は江戸の七福神を選んだ中で向島の白鬚大明神を寿老人としており、むしろ白鬚大明神=寿老人のほうが先だったのではないかという指摘もある。
なお、白鬚神社は御祭神・猿田彦大神を寿老神とするため、七福神詣の期間中も御開帳は行われない。
七福神碑
白髭神社の七福神碑は、幕末に長州へ落ち延びた七卿の一人で、貴族院副議長・枢密院副議長などを歴任した東久邇通禧による「白髭大神」。
御朱印
平成19年拝受の御朱印。揮毫は「壽老神」。中央の朱印は「白鬚神社」、右上は「白鬚社」、左下は鹿に「白鬚神社」。
アクセス
□向島百花園(福禄寿)より徒歩7分
□多聞寺(毘沙門天)より徒歩30分
※バスを利用する場合、「墨田五丁目」から京成タウンバス浅草寿町行き「地蔵坂」下車徒歩3分
□東武スカイツリーライン「東向島駅」より徒歩10分
多聞寺(毘沙門天)
■隅田山 吉祥院 多聞寺
御本尊:毘沙門天
創建年代:天徳年間(957~61)
開山:不詳
宗派:真言宗智山派
所在地:東京都墨田区墨田5-31-13 [Mapion|googlemap]
公式サイト:http://www.sumidasan-tamonji.or.jp/top.html
略縁起
多聞寺は、天徳年間(957~61)古代奥州街道の隅田千軒宿に開創されたと伝えられる。当時は大鏡山明王院隅田寺と称し、不動明王を本尊としていた。水神社(隅田川神社)の別当で、古くはその近くの墨田千軒宿にあったという。
天正年間(1573~92)現在地に移転。弘法大師の作と伝えられる毘沙門天を御本尊とし、隅田山吉祥院多聞寺と改めた。
墨田区内最北端にあり、関東大震災や第二次大戦の戦災に遭わなかったため、昔の面影をよく残している。特に茅葺きの山門は江戸中期に再建されたもので、区内最古の建築物として区の文化財に指定されている。また寛文4年(1664)銘の庚申阿弥陀如来石像が区指定文化財、石造六地蔵菩薩坐像が区登録文化財となっている。
また、境内の狸塚は、この辺りに住み着いて悪戯を重ね、毘沙門天の罰によって死んでしまった妖怪狸の夫婦を供養するために築かれたものである。
七福神碑
多聞寺の七福神碑は、旧幕臣で後に明治政府に登用され、海軍中将や逓信大臣・外務大臣などとして活躍した榎本武揚による「毘沙門天」。
御朱印
多聞寺の御朱印対応は1月1日から7日のみである。
平成19年拝受の御朱印。上の朱印は八方崩しで判読しづらいが、「佛法僧宝」の三宝印のようである。中央右の印は「すみ田川 たぬき塚」、左下は「多聞寺」。揮毫は「毘沙門天」、左下の寺名は「狸寺」であろう。
アクセス
□白髭神社(寿老神)より徒歩30分
※バスを利用する場合、「地蔵坂」から京成タウンバス亀有駅行き「墨田五丁目」下車徒歩3分
□東武スカイツリーライン「鐘ヶ淵駅」より徒歩15分
□東武スカイツリーライン「堀切駅」より徒歩10分