社伝によれば弘法大師の創建で、文和年間(1352~56)近江の三井寺の僧・源慶が再興したという。元禄6年(1693)俳人・其角が参拝した時、折からの干ばつで村人たちが雨乞いの祈願をしていた。其角が能因法師の故事に因んで雨乞いの句を奉納すると、翌日雨が降った。これが評判となって広く信仰を集めるようになった。京都の豪商・三井家は江戸に進出すると当社を守護神として深く信仰し、現在も三井グループ各社の崇敬を受けている。
正式名称 | 三圍神社〔みめぐりじんじゃ〕 |
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御祭神 | 宇迦之御魂命 |
社格等 | 旧村社 |
鎮座地 | 東京都墨田区向島2-5-17 [Mapion|googlemap] |
御朱印
(1)平成17年拝受の御朱印。中央の朱印は「三圍神社」、右上は「角田川七福神」、左下は巾着に「三圍社 隅田川七福の内 恵比寿 大こく(“こ”は変体仮名)」。
(2)隅田川七福神、大国神・恵比寿神の御朱印。平成19年拝受。
昔の御朱印
(1)大正10年頃の御朱印。中央の朱印は「三圍神社」。右下に現在のものと同じ巾着に「三圍社 隅田川七福の内 恵比寿 大こく」、左下に「三圍神社社務所印」。
(2)昭和9年頃の御朱印。中央は「三圍神社」、右上に「角田川七福神」。
御由緒
小梅村の鎮守。古くは田の中にあったことから田中稲荷と称された。創建に関しては不詳だが、社伝によれば弘法大師による勧請という。
文和年間(1352~56)近江の三井寺の僧・源慶が東国を巡っている途中、隅田川のほとりの牛島の辺りを通った。そこに荒れ果てた小堂があり、里人から弘法大師の創建であることを聞いた。その有り様を嘆いた源慶が社殿を修築しようとしたとき、土中に埋まっていた壺から白狐にまたがる老翁の像を得た。その時、白狐が現れて神像の周りを三度巡り、去って行った。そこで「三囲」の名がついたという。
元亀年間(1570~73)社殿が焼失したため、天正年間(1573~93)南方に移転再建、さらに慶長年間(1596~1615)隅田川の築堤に伴って現社地に遷座した。
三囲神社の名を世に知らしめたのは俳人・其角の故事である。
元禄6年(1693年)春からの干魃のため、近辺の農民が三囲神社で雨乞いの祈願をしていた。そこへ参詣に来た其角が、能因法師の故事(伊予国一宮・大山祇神社に和歌を奉納して雨乞いをすると、国中に雨が降ったと伝えられる)に因み、雨乞いをする人々に代わって「夕立や田を見めぐりの神ならば」という句を神前に献じたところ、翌日に雨が降った。このことが評判となり、広く信仰を集めるようになった。
京都の豪商・三井家が江戸に進出すると、三囲神社を守護神として深く崇敬した。三井家が店を構えた日本橋の鬼門にあることから鬼門除けの守護神としたとされるが、三囲の「囲」が「井」を囲むことから三井家の守護神としたとも、其角の霊験によるともいう。
享保元年(1716)には神祗管領吉田家に願い出て正一位の神階を受けた。享保8年(1823)には三井高房が願主となって社地を広げ、社殿を造営して、ほぼ現在に近い姿に整えられたという。
その他、境内には「其角雨乞いの碑」「宗因白露の碑」「朱楽管江辞世の碑」をはじめ多くの碑が建つ。また、白狐祠とその前の老翁老嫗の石像は、其角の「早稲酒や狐呼び出す姥がもと」の句で知られる。
写真帖
メモ
其角の故事と三井家との関わりでよく知られる神社である。現在も三井グループ各社でつくる「三囲会」が地元町会と協力して例祭を行い、また三越本支店には当社の分霊を祀っている。また、隅田川七福神の大国・恵比寿はもともと越後屋に祀られていたものである。他にも三井家の先祖を祀る顕名霊社、三越池袋店にあったライオン像など三井家に関わるものが多い。
三囲神社の概要
名称 | 三圍神社 |
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旧称 | 三囲稲荷 三囲社 田中稲荷 |
御祭神 | 宇迦之御魂命〔うがのみたまのみこと〕 |
鎮座地 | 東京都墨田区向島二丁目5番17号 |
創建年代 | 不詳 |
社格等 | 旧村社 |
例祭 | 4月上旬 |
神事・行事 | 1月1日~7日/新年祭(七福神まいり) 1月下旬/正月例祭 5月下旬/五月例祭 9月15日前後の日曜日(5年に1回)/神幸祭 10月下旬/秋の例祭 |
巡拝 | 隅田川七福神(大国神・恵比寿神) |
交通アクセス
□東武伊勢崎線「東京スカイツリー駅」より徒歩約10分
□都営浅草線「本所吾妻橋駅」より徒歩約10分