寛政7年(1795)浄土真宗の順拝帳(1)

寛政7年真宗順拝帳表紙

寛政7年(1795)浄土真宗の順拝帳。寛政2年(1790)の順拝帳とともに真宗の順拝帳としてはごく初期のものと考えられ、参拝記念の刷り物から順拝帳の御判へと移行していく過程がよくわかる貴重な資料である。真宗寺院を中心とする51ヶ所の御判・納経が収められており、ここでは序盤の18ヶ所を紹介する。

寛政7年の順拝帳について

御判の形式

収録されている寺社は51ヶ所だが、山科東御坊(東本願寺山科別院)のみ帳面に直書きしたものと刷り物(貼り付けていない)があるため、総数は52である。51のうち筆で直書きしたものが29、版木押しが2、刷り物を順拝帳に貼ったものが15、貼っていない刷り物が5である。

貼っていない刷り物のうち2枚は2ページ分ある。順拝帳は二つ折りにした紙を綴じたものなので、順拝帳に使っている用紙1枚分ということになる。1枚は全面を使って寺の縁起を、1枚は簡単な縁起と主立った霊宝を記している。これらが浄土真宗の御朱印(御判)の起源となった刷り物だと考えられる。

残りの3枚は順拝帳に貼り付けることができるサイズで、ページが足りなくなったために貼り付けないまま挟んでいた可能性が高い。貼り付けられている15枚とともに、順拝帳の普及に対応して貼り付け可能なサイズにしたのではないだろうか。

参拝している寺社

寛政2年の順拝帳に収められているのは真宗寺院のみだが、寛政7年の順拝帳には1ヶ所、真言宗の寺院が2ヶ所、浄土宗の寺院が1ヶ所含まれている。

これは、この順拝帳の持ち主が過度に自分の宗派に拘る偏狭な思想の持ち主ではなかったことを示している。と同時に、神社や真言宗の寺院が記帳を拒んでいないことから、当時においても起源の異なる真宗の順拝帳と他宗の納経帳が同様のものとして認識されていたこともわかる。

真宗寺院は46ヶ寺。西(本願寺派)が18ヶ寺、東(大谷派・東本願寺派)が25ヶ寺、木辺派・仏光寺派・誠照寺派・出雲路派が各1ヶ寺である。東・西などの宗派に関係なく、親鸞門下の真宗寺院という意識を持っていたことがうかがわれる。

巡拝の経路を見ると、琵琶湖北岸の五村別院(滋賀県長浜市)から初めて琵琶湖東岸を南下、大津から京都に入っている。その後、琵琶湖西岸を北上して越前に入り、加賀国を経て越中で終わっている。非常に中途半端な終わり方をしているので、本来はこれ一冊ではなかったことが想定できる。また、表紙に最初の御判があることから、五村別院より前の部分が欠落している可能性もあるだろう。

五村別院

五村別院の御判

【全】五村別院
五村御坊(真宗大谷派五村別院)
宗派:真宗大谷派(東派)
所在地:近江国浅井郡五村(滋賀県長浜市五村)
公式サイト:http://www.daitsuji.or.jp/gomura

■版木押しで「信浄院殿教如上人 開基/霊宝略之/江州浅井郡五村/御坊/役者/頓證寺」、日付は「卯五月廿七日」。

★開基は東本願寺12代法主の教如上人。秀吉の命により、教如に代わって准如が本願寺法主を継職した後、教如は門徒の多い近江の湖北地方で教化を行った。慶長2年(1597)頃、大村刑部左衛門らが教如に帰依、寺地を寄進して道場を建立したことに始まるという。慶長5年(1600)徳川家康の命により、日下部善助玄昌を普請奉行として本堂が造営された。

★役者の頓證寺とあるのは長浜市三川町の頓証寺であろう。

誓願寺/長浜別院大通寺

誓願寺・長浜別院大通寺の御判

【右】誓願寺
湯吹山 誓願寺
宗派:浄土真宗本願寺派(西派)
所在地:近江国浅井郡内保村(滋賀県長浜市内保町)

■墨書は「近江國浅井郡内保里/湯吹山 誓願寺/大祖聖人御直弟二十四輩唯弘/祖師聖人六十二才御自作御木像/其外略之/役者中」、日付は「五月廿七日」。左下の黒印は「湯吹山/慶乗/廣語院」と思われる。

★近江北部の一向一揆の中心となった湖北十ヶ寺の一。寺伝によれば、奈良時代に定恵が開創し、後に天台宗となった弓月寺を起源とする。日本歴史地名大系『滋賀県の地名』によれば、文明14年(1482)に住職の慶信が蓮如から親鸞の絵像を下賜されていることから、この頃までには真宗に改められていたことがわかるという。ただ、御判に「大祖聖人御直弟二十四輩唯弘」とあるように、佐々木高綱の五男・幡谷高継が親鸞から唯弘の名を賜ったという寺伝があったようだ。

【左】長浜別院大通寺
長浜御坊大通寺(真宗大谷派長浜別院 無礙智山 大通寺)
宗派:真宗大谷派(東派)
所在地:近江国浅井郡長浜町(滋賀県長浜市元浜町)
公式サイト:http://www.daitsuji.or.jp/

■版木押しで「江州長濱/御坊/役者」、日付は「寛政七卯五月廿七日」。右上の黒印は「龍谷山懸所」、中央は「大通」、左下は判読できない。

★石山合戦の頃、長浜町の町年寄衆によって設けられた惣会所(総坊)を前身とすると伝えられる。慶長元年(1602)旧長浜城内に移築。慶長7年(1602)本願寺が分立した後、無礙智山大通寺と号する。正保元年(1644)東本願寺第12代宣如の子・宣澄が入寺し、第一世となった。以来、本願寺の連枝寺院として栄える。本堂・大広間は東本願寺から移築したもので、伏見城の遺構と伝えられる。

福田寺/西音寺

福田寺・西音寺の御判

【右】福田寺
布施山 福田寺 ※通称/長沢御坊
宗派:浄土真宗本願寺派(西派)
所在地:近江国坂田郡長沢村(滋賀県米原市長沢)

■墨書は「江州長沢村/御坊/役者」、日付は「寛政七卯年五月廿七日」。右上の黒印は「布施山」、中央は「福田」、左下は判読できない。

★寺伝によれば、白鳳13年(684?)忍海部荘布施(現在の長浜市布勢町)に建立された布施山息長寺功徳院を起源とする。初めは法相宗、後に天台宗となったが、正安年間(1299~1302)善顕が本願寺覚如に帰依して覚乗の法名を授かり、真宗に改めて福田寺の寺号を許された。石山合戦の頃には近江北部の一向一揆の中心となった湖北十ヶ寺の惣頭職として織田信長の軍勢と激しく戦った。寛文11年(1671)本山直轄寺院となり、長沢御坊と呼ばれた。宝暦11年(1761)本願寺法如の子・闡道が入寺し、西本願寺の院家となった。

【左】西音寺
青龍山 西音寺
宗派:真宗大谷派(東派)
所在地:近江国犬上郡中河原村(滋賀県犬上郡多賀町中川原)

■刷り物を貼り付けている。木版で「高祖聖人 御腰掛石/二尊佛眞影 蓮如上人御筆/江州犬上郡中川原/西音寺/役者」、日付は「五月廿八日」。左下の黒印は判読できない。

★古くは敏満寺(胡宮神社の神宮寺、廃寺)の子院で三光院という天台宗の寺であったという。寛喜3年(1231)願信が親鸞聖人に帰依し、真宗に帰依して西音寺と号した。

多賀大社/唯念寺

多賀大社の納経・唯念寺の御判

【右】多賀大社
多賀大社
宗派:神社神道(※当時の別当・不動院は天台宗)
所在地:近江国犬上郡多賀村(滋賀県犬上郡多賀町多賀)
公式サイト:http://www.tagataisya.or.jp/

■墨書は「近江国 奉納経/多賀大社御神前/御奈良院帝勅願所/大神主」、日付は「卯ノ五月廿八日」。左下の黒印は「菅原姓」か。ただし多賀大社大神主の河瀬氏は犬上犬上氏の後裔である。

★御祭神は伊邪那岐命・伊邪那美命。古事記に「伊邪那岐大神は淡海の多賀に坐すなり」とあるのが多賀大社を指すとされる。室町時代の末期、別当・不動院配下の坊人が活発な勧進を行い、その信仰が全国に広まった。特に豊臣秀吉が大政所の病気平癒・延命を祈願し、報賽として米1万石を寄進したことは有名である。江戸時代も徳川将軍や彦根藩主井伊家の庇護を受けて繁栄した。

【左】唯念寺
兜率山 唯念寺
宗派:真宗大谷派(東派)
所在地:近江国犬上郡四十九院村(滋賀県犬上郡豊郷町四十九院)

■墨書は「江州兜率山四十九院/唯念寺/當院開基行基菩薩天平年中/所建之古霊場千有余年不■地也/實如上人御時永正年中帰真宗/教如上人御滞留之遺跡也/當番/音通寺」、日付は「寛政七年卯五月廿八日」。

※文面は寛政2年の順拝帳にあるものとほぼ同じである。

★天平3年(731)行基菩薩が近江国に開創した四十九ヶ所の寺院のうち最後に建立された寺院で、兜率山四十九院と号したという。元は法相宗で、後に天台宗を兼ねたが、永正年間(1504~21)實如上人のときに真宗に改宗したと伝えられる。

★音通寺は唯念寺と同じ四十九院にあった寺のようで、明治44年(1911)の『大谷派寺院録』(国会図書館デジタルコレクション)に名前が見える。

弘誓寺(瓜生津)

弘誓寺の御判

【左】弘誓寺
金剛山 弘誓寺
宗派:浄土真宗本願寺派(西派)
所在地:近江国蒲生郡瓜生津村(滋賀県東近江市瓜生津町)

■墨書は「蒲生郡瓜生津/二十四輩御跡金剛山弘誓寺者/大祖聖人/覚如上人/蓮如上人/并 存覚師 御教化之霊場/霊宝数多略之/役者/浄教寺」、日付は「寛政七卯年五月廿九日」。左下の黒印は「賢■」で、住職の名と思われる。

★源平合戦で有名な那須与一の子孫にゆかりがあるという近江七弘誓寺の一。また、木辺派本山の錦織寺とも深い関わりがある。寺伝によれば、那須与一宗高の子孫・宗成が近江国犬上郡石畠と野洲郡木部を領有することになり、移住した。親鸞聖人に帰依して僧となり、願明房宗信と称した。木部に錦織寺を建立するとともに、石畠にも一寺を建立した。後年、これを瓜生津に移し、弘誓寺と号したという。本願寺通紀は願明房は那須与一宗隆の孫・光資の子で、剃髪して願明と称し、木部錦織寺を開創した。願明には二人の子があり、長子・愚咄が瓜生津の弘誓寺を開創、次子の慈空が錦織寺を継いだとされる。元亨元年(1321)本願寺3代覚如の子・存覚が廃嫡されて関東に向かう途中、瓜生津に愚咄を訪ね、妻子を託した。その後もたびたび滞在したという。建武3年(1336)足利尊氏の軍が京都に入ると、覚如は兵火を避けて瓜生津の弘誓寺に滞在した。愚咄は覚如・存覚父子の和解を図り、翌建武4年(1337)存覚の勘当が解かれたという。また、明応7年(1498)には蓮如上人が滞在した。

宝満寺

宝満寺の御判

【左】宝満寺
負別山 宝満寺
宗派:真宗大谷派(東派)
所在地:近江国愛知郡愛知川村(滋賀県愛知郡愛荘町愛知川)

■墨書は「江州愛知川/負別山寶満寺/宝物品々略之月番/役者」、日付は「寛政七年卯五月廿九日」。左下の黒印は「賀茂之印」か。

★寺伝によれば、元は大国寺と号し、本尊は大日如来、豊満神社の東方、豊満と南野々目の境付近にあった。光仁天皇の御代(770~781)僧知徳の開基で、延暦5年(786)秦豊満が少々した。豊満神社の別当寺で、豊満寺とも称したという。建暦2年(1212)流罪を解かれた親鸞聖人が越後から京に向かう途中、愛知川が氾濫して渡ることができなかったので、当寺に滞在した。この時、本尊・大日如来の霊告により僧慈全が真宗に改宗と伝えられる。後に現在地に移転、豊満を宝満に改めたという。僧善興の時、蓮如上人の教化に帰依し、善西の時、教如上人に従って東本願寺に属した。

弘誓寺(金堂)/本行寺

弘誓寺(金堂)・本行寺の御判

弘誓寺
石畠山 弘誓寺 ※通称/金堂弘誓寺
宗派:真宗大谷派(東派)
所在地:近江国神崎郡金堂村(滋賀県東近江市五個荘金堂町)

■墨書は「覚如上人御聞法有之/江州神崎郡金堂村/弘誓寺/役者」、日付は「寛政乙七卯六月朔日」。左下の黒印は「金堂弘誓寺■■」。

★那須与一の子孫に縁を持つ近江七弘誓寺の一。開基は瓜生津(東近江市瓜生津町)及び躰光寺(東近江市躰光寺町)の弘誓寺と同じく愚咄(那須与一の曾孫で錦織寺を開いた願明の長子)とされる。瓜生津の弘誓寺との関係は不明な点が多いが、躰光寺の小川弘誓寺とは由緒を同じくし、本願寺が東西に分かれた際に分立している。寺伝によれば、愚咄が石畠(犬上郡豊郷町石畑)に開創し、正応5年(1292)覚如が関東の親鸞聖人旧跡巡拝から帰郷する途次、寺号を許されたという。13代明慶の時、石畠から小川(躰光寺)へ移ったというが、それより古く小川に寺基を移していたとする資料もあり、移転の時期については不明確である。14代正定の時、小川と金堂に分立し、金堂弘誓寺は東本願寺に、小川弘誓寺は西本願寺に帰属した。

威徳閣本行寺
威徳閣 本行寺
宗派:浄土真宗本願寺派(西派)
所在地:近江国神崎郡種村(滋賀県東近江市種町)

■墨書は「江州神嵜郡種邑/西本願寺連枝/本行寺/役者/善潤寺」、日付は「卯六月朔日」。左下の黒印は「善潤寺之印」。

★開基は西蓮坊教順で、大永元年(1521)の草創。日本歴史地名大系『滋賀県の地名』によれば、由緒記に元は天台宗で、教順の俗名は佐々木盛綱の息男・種村盛重とするとある。佐々木盛綱は鎌倉時代の武将なので、鎌倉時代に教順が天台宗の寺院として創建し、大永元年に真宗寺院に改められたということか。宗順の代に西游寺の寺号を許された。元は犬上郡河瀬庄馬場村(現・彦根市川瀬馬場町)にあったが、江戸時代の初め頃、現在地に移転したようだ。

★本行寺という寺号は、本願寺12代准如が福井別院の住職となった時、顕如から与えられた寺号である。和田本覚寺と荒川興行寺から一文字ずつ取り、両寺の末寺・門徒とともに付与されたという。その後、准如は御児御所と改めるが、本行寺の号は息子の准悟に与えられたらしい。寛文9年(1669)准悟の子・良従が西游寺に入った際、本行寺の寺号を継ぎ、西本願寺の院家となった。

★善潤寺は本行寺と同じ種村(東近江市種町)にあった寺のようである。現存しないが、明治41年(1908)の『本派本願寺寺院名簿』に名前が見える。

小川弘誓寺/蓮照寺

小川弘誓寺・蓮照寺の御判

【右】小川弘誓寺
石畠山 弘誓寺 ※通称/小川弘誓寺
宗派:浄土真宗本願寺派(西派)
所在地:近江国神崎郡躰光寺村(滋賀県東近江市躰光寺町)

■墨書は「江州神崎郡躰光寺小川邨/弘誓寺/役者/覚如上人御旧跡」、日付は「寛政七乙卯六月朔日」。下の黒印は判読できないが、「■■寺」のようである。

★躰光寺村の北部、小川村との境界近くにある。所在地は躰光寺だが、小川弘誓寺と呼ばれる。近江七弘誓寺の一で、瓜生津(東近江市瓜生津町)・金堂(東近江市五個荘金堂町)の弘誓寺と同じく愚咄を開基とする。特に金堂の弘誓寺とは由緒を同じくし、愚咄が石畠(犬上郡豊郷町石畑)に開創し、正応5年(1292)覚如が関東の親鸞聖人旧跡巡拝から帰郷する途次、寺号を許されたという。14代正定の時、小川と金堂に分立した。正定は慶長6年(1601)か慶長18年(1613)に没したとされていることから、本願寺が東西に分かれた頃に分立したのであろうと考えられている。ただし、残されている記録から石畠から小川(躰光寺)への移転はそれより古く遡るであろうという。安永8年(1779)本願寺の院家となった。

【左】蓮照寺
八幡山 蓮照寺
宗派:真宗大谷派(東派)
所在地:近江国蒲生郡八幡町(滋賀県近江八幡市玉木町)

■版木押しで「宣如上人御開基/本願寺御門跡懸所/江州八幡山/蓮照寺」、日付は「卯六月朔日」。右上の黒印は判読できない。左下は「御堂」。

★寺伝によれば、開創年代は不詳で、元は庄村(蒲生郡竜王町庄)にあったという。慶長年間(1596~1615)八幡山下の現在地に移転した。この時、坂田郡世継村(米原市世継)浄念寺の了善が尽力したという。江戸時代は東本願寺の懸所(別院)として繁栄した。

★八幡町への移転は東本願寺13代宣如の時代になる。「宣如上人御開基」とあるのは、宣如を名目上の開基に迎えたものか。

八幡別院/錦織寺

本願寺八幡別院・錦織寺の御判

【右】八幡別院
八幡御坊 金台寺(本願寺八幡別院)
宗派:浄土真宗本願寺派(西派)
所在地:近江国蒲生郡八幡町(滋賀県近江八幡市北元町)

■墨書は「江州八幡/御坊/當役/西林寺」、日付は「一七九五年卯六月一日」。右上の黒印は「真宗」、下は「■■圖書」。

★江戸時代には金台寺と号し、八幡御坊と称された。本願寺11代顕如によって安土城下に開創された。天正14年(1586)安土城下の八幡城下移転に伴い、八幡町に移転した。関ヶ原で勝利した徳川家康は、上洛の途次18日間滞在。寛永11年(1634)徳川家光は上洛の際に家康の吉例の宿として当寺に入った。また朝鮮通信使の正使の昼食所とされたという。

★当役の西林寺については詳細不明。

【左】錦織寺
遍照山 天神護法院 錦織寺
宗派:真宗木辺派本山
所在地:近江国野洲郡木部村(滋賀県野洲市木部)
公式サイト:http://www.kinshokuji.or.jp/

■刷り物を貼り付けている。版木押しで「錦織寺/四條皇帝/勅願所/一、本尊常州霞浦感得阿弥陀如来/一、開山聖人自畫滿足之御影/一、同聖人霊夢之毘沙門天王 傳教大師御作/霊宝畧之/役所」、日付は「寛政七乙卯六月二日」。左下の黒印は「天錦」。

★寺伝によれば、伝教大師が比叡山を開く際、鞍馬寺の毘沙門天と同じ木で彫った同じ像を、天安2年(858)慈覚大師が天安堂を建立して祀ったことを起源とする。嘉禎元年(1235)親鸞聖人は関東から帰洛の途次、天安堂に宿を借り、毘沙門天の霊告を得て霞ヶ浦で感得した阿弥陀如来を奉安した。領主の石畠資長が親鸞に帰依し、寺院として整備した。資長の長子・愚咄は瓜生津小川金堂の弘誓寺の開基である。親鸞聖人は著述中であった『教行信証』全六巻のうち最後の「真仏土巻」と「化身土巻」を完成させ、門徒に請われてその喜びの姿を自ら画いた(満足の御影)。暦仁元年(1238)7月6日夜、天女が飛来して錦を織り、仏前に供えた。これを四条天皇の叡覧に供したところ、「天神護法錦織之寺」の額を賜って勅願寺とされたという。

金森御坊/東本願寺山科別院

金森御坊・東本願寺山科別院の御判

【右】金森御坊・善立寺
金森御坊
金園山 善龍寺(金園山 善立寺)
宗派:真宗大谷派(東派)
所在地:近江国野洲郡金森村(滋賀県守山市金森町)

■墨書は「江州金森御坊/蓮如上人御旧跡/道西坊古跡也/善龍寺/霊宝略之」、日付は「寛政七卯年六月二日」。左下の黒印は判読できない。

★14世紀、当地の領主であった川那辺厚春が本願寺5代綽如に帰依し、その子・在貞の時代に金森惣道場(後の金森御坊)が開かれた。その子・矩厚は本願寺7代存如に帰依して道西(後に善従)と名乗った。この頃、惣道場を中心として寺内町が形成された。寛正6年(1465)京都の大谷本願寺を比叡山の僧兵に破却された蓮如は、金森の道西のもとに身を寄せた。文明元年(1469)蓮如は堅田に移るが、金森は金森御坊を中心に湖南における本願寺教団の拠点として栄えた。現在は道西の開基と伝える善立寺と因宗寺によって護持されている。

【左】東本願寺山科別院
山科東御坊(東本願寺山科別院 長福寺)
宗派:真宗大谷派(東派)
所在地:山城国宇治郡竹鼻村(京都市山科区竹鼻サイカシ町)

■墨書は「山科東御坊/本願寺懸所/蓮如上人御跡/役者」、日付は「寛政七年卯六月三日」。右上の黒印は「山科御坊」、左下は「役者」。

★文明10年(1478)蓮如上人は海老名五郎左衛門(浄乗)から寺地の寄進を受け、山科に坊舎の建立を開始した。同12年(1480)御影堂が完成、大津の近松御坊より親鸞聖人の像を移した。翌13年(1481)阿弥陀堂に本尊を安置し、同14年(1482)には諸堂がほぼ完工した。これが山科本願寺で、以後半世紀にわたって本願寺教団の本寺として繁栄した。しかし天文元年(1532)本願寺10代証如の時、六角定頼と法華宗徒らの襲撃で灰燼に帰した。証如らは石山坊舎(石山本願寺)に退却、山科の旧地は荒廃した。天正14年(1586)には豊臣秀吉が旧寺地の一部を顕如に寄進した。江戸時代になり、蓮如上人の墓所の帰属を巡って東西本願寺が争った。元文4年(1739)幕府の裁定により両本願寺の共有とされるが、それまでに双方が墓所近くに御坊(別院)を建立した。

★東本願寺山科別院(山科東御坊)は、享保17年(1732)東本願寺17代真如の命により、本山内にあった長福寺を山科本願寺跡・蓮如上人御廟にほど近い竹鼻村に移転、創建した。

東本願寺山科別院の御判

※この順拝帳には、山科東御坊の貼り付けられていない刷り物の御判が挟まれていた。日付は順拝帳に直書きされたものと同日。文面が違うので両方いただいたという可能性もあるが、刷り物をいただいた後、直書きしてもらえることがわかって再度いただいたという可能性が高いのではないだろうか。書き置きやスタンプより直書きがいいという傾向はこの時代まで遡れるのではないかと思われる。

■版木押しで「城州宇治郡山科/本願寺懸所/蓮如上人御旧跡御木像御自作/願によりて御印有之者也/役者」、日付は「寛政七年卯六月三日」。黒印は順拝帳と同じく「山科御坊」「役者」。

本願寺山科別院(西)

本願寺山科別院の御判

【左】本願寺山科別院
山科西御坊(本願寺山科別院)
宗派:浄土真宗本願寺派(西派)
所在地:山城国宇治郡東野村(京都市山科区東野狐薮町)
公式サイト:https://www.yamashinabetsuin.jp/

■刷り物を貼り付けている。文面は版木押しで「城州宇治郡山科郷小野庄/本願寺兼帯所聖水山/蓮如上人 實如上人 證如上人/御跡御塚所/輪番所」。日付はないが、東御坊と同じ6月3日であろう。左下の黒印は判読しづらいが、「山科御坊」だろうか。

★山科本願寺については山科東御坊を参照。享保17年(1732)西本願寺15代住如が山科講から山科本願寺跡・蓮如上人御廟にほど近い東野村の土地を寄進され、北山御坊(北山別院)の本堂を移築したことに始まる。北山御坊は聖水山養源寺と号するが、所在地の地名から舞楽寺御坊とよばれ、むしろ養源寺の寺号より「舞楽寺」と呼ばれるようになっていた。このことにより山科への移築当初は聖水山舞楽寺と号したが、天明年間(1781~89)山科本願寺の山号寺号に因んで松林山本願寺と改められた。山科別院墓地には実如上人・証如上人の御廟もある。

寛政年間 浄土真宗の順拝帳
浄土真宗の門徒による寛政2年(1790)と寛政7年(1795)の順拝帳。真宗の順拝帳としては初期のものと思われる。この2冊は別々に入手したものでお互いに関係ないが、時期が近く、収められた御判の数も多くないので、まとめて紹介する。 【1】寛政...

【1】寛政2年(1790)浄土真宗の順拝帳

【2】寛政7年(1795)浄土真宗の順拝帳(1)

【3】寛政7年(1795)浄土真宗の順拝帳(2)

【4】寛政7年(1795)浄土真宗の順拝帳(3)

※参考
・日本歴史地名大系(平凡社)
・各寺社公式サイト
・『近江国坂田郡志』(国会図書館デジタルコレクション)
・『近江蒲生郡志』(国会図書館デジタルコレクション)
・『近江愛智郡志』(国会図書館デジタルコレクション)
・『二十四輩順礼・親鸞聖蹟』(国会図書館デジタルコレクション)
・『本派本願寺寺院名簿』(国会図書館デジタルコレクション)
・『大谷派寺院録』(国会図書館デジタルコレクション)
・Wikipedia

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