寛政2年(1790)浄土真宗の順拝帳

寛政2年真宗順拝帳表紙

寛政2年(1790)浄土真宗の門徒の順拝帳。真宗寺院のみ19ヶ寺の御判が収められている。他宗の納経帳でも数が少ない18世紀のものであり、寛政7年(1795)の順拝帳と同じく真宗の順拝帳としては極めて初期のものであると思われる。

順拝帳の概要については寛政年間 浄土真宗の順拝帳も参照されたい。

寛政2年の順拝帳について

表紙には『御旧跡順拝帳』というタイトルと「寛政二庚戌年」「四月中旬」「江州彦根新町」「源蔵」の文字が見える。近江国彦根城下に住む源蔵という人物が寛政2年四月中旬から親鸞聖人・蓮如上人ゆかりの旧跡を巡った際の順拝帳ということであろう。

江戸時代の彦根城下を見ると、北新町・東新町・裏新町などの町名はあるが新町はない。現在の彦根市新町は江戸時代の後三条町である(現在の後三条町は江戸時代の後三条村)。通称であろうが、残念ながら詳細はわからない。

順拝帳に収められた御判は19ヶ寺で、その多くが近江国と北陸地方のものだが、信濃国・陸奥国・伊勢国・大阪の寺院も1ヶ所ずつある。広範囲を旅している割に御判の数が少ないが、これは御判が単なる参拝記念ではなく、まとまった金額を寄進して霊宝などを拝観した際に領収書的な意味も兼ねて授与されたものだからではないかと思われる。

この順拝帳は真宗寺院の御判のみ収められているが、本願寺派(西)・大谷派(東)に属する寺院だけではなく、高田派本山の高田専修寺、山元派本山の證誠寺も含まれている。なお江戸時代、証誠寺は聖護院(天台宗寺門派、現在は本山修験宗総本山)の末寺だったようである。

なお、この順拝帳は参拝の順にはなっていない。御判に書かれた参拝日から、参拝経路を復元してみる。

5月5日 高田本山専修寺(三重県津市)
5月20日 本泉寺(大阪市北区)※明治31年、四條畷市に移転
6月27日 願応寺(滋賀県長浜市)
7月2日 証誠寺(福井県鯖江市)
7月4日 福井西別院(福井県福井市)
7月5日 吉崎東別院(福井県あわら市)
7月7日 御堂陽願寺(福井県越前市)
7月9日 長円寺(石川県小松市)
7月11日 松任本誓寺(石川県白山市)
7月12日 金沢西別院(石川県金沢市)
7月18日 極性寺(富山県富山市)
7月21日 浄永寺(富山県黒部市)
7月23日 大雲寺(新潟県糸魚川市)
8月5日 唯念寺(長野県長野市)
8月24日 三条別院(新潟県三条市)
9月16日 託明寺(新潟県新発田市)

不明 超専寺(滋賀県大津市)、本念寺(福島県須賀川市)、唯念寺(滋賀県豊郷町)

大まかに見て、近江国の彦根を出て伊勢に向かい、大阪に出て、再び近江へ。琵琶湖東岸を通って越前に入り、加賀・越中を経て越後へ。糸魚川から信濃の川中島(長野市)、再び越後の三条・新発田と回っている。順路から考えて、伊勢神宮や善光寺にも参拝したのではないだろうか。

参拝日不明の本念寺には託明寺の後に参拝したものと思われる。超専寺と唯念寺は伊勢に向かう前か大阪から北陸に向かう途次、もしくは旅の最後に参拝したのであろう。

また、順拝帳の中の配列と参拝の順序が違うこと、裏表紙にも御判があることから考えて、欠落した部分がある可能性も想定できるだろう。

超専寺/御堂陽願寺

超専寺・陽願寺の御判

【右】超専寺
念仏山 宝幢院 超専寺
宗派:浄土真宗本願寺派(西派)
所在地:近江国滋賀郡大物村(滋賀県大津市大物)

■墨書は「西湖 滋賀郡大物/念佛山 超専寺/高祖聖人 御直弟/執事」、日付は判読できない。左下の黒印も判読できない。

★関東六老僧の一人・明空の開基と伝えられる。明空は鎌倉幕府の有力御家人であった三浦義村の子・駿河八郎胤村とされる。宝治合戦で一族は滅亡するが、胤村は奥州にいたため赦免された。後に上洛して親鸞聖人の弟子となり、当寺を建立した。さらに晩年は常陸国に下り、下妻に光明寺を建立したと伝えられる。

寛政7年(1795)の順拝帳にも御判がある。

【左】御堂陽願寺
出雲山 陽願寺 ※通称/御堂陽願寺
宗派:浄土真宗本願寺派(西派)
所在地:越前国南条郡府中町(福井県越前市本町)
公式サイト:https://youganji.com/

■墨書は「越州府中/御堂出雲山/灵(霊)寶略之」、日付は「戌七月七日」。左下の黒印は判読できない。

★陽願寺は、出雲路派本山・毫摂寺の住職・善鎮が門末を率いて山科本願寺の蓮如上人に帰依、文明4年(1471)南条郡広瀬村岩崎(現・越前市広瀬)に一宇を建立したことに始まる。天正年間、府中城主・青木秀以の帰依を受けて現在地に移転した。

願応寺

願応寺の御判

【全】願応寺
願応寺
宗派:真宗大谷派(東派)
所在地:近江国浅井郡宮部村(滋賀県長浜市宮部町)

■墨書は「本願寺御門跡院家/近江国/神林(?)霊山/願應寺/当山開基ハ木曽義仲公之御子也/役所」、日付は「六月廿七日」。左下の黒印は判読できない。

★日本歴史地名大系『滋賀県の地名』には願応寺について文明元年(1469)開基とある。しかし「当山開基は木曽義仲公の御子なり」という文があるので、木曽義仲の遺児による開創という寺伝があると思われるが、詳細はわからない。

浄永寺/大雲寺

浄永寺・大雲寺の御判

【右】浄永寺
長井山 浄永寺
宗派:真宗大谷派(東派)
所在地:越中国新川郡金屋新村(富山県黒部市金屋)

■墨書は「越中新河郡金屋村/高祖成人御跡/長井山浄永寺/宝物縁起如別記/役僧」、日付は「戌七月廿一日」。「宝物・縁起は別記の如し」とあるので、別途宝物や縁起について書かれた刷り物が渡されていたと思われる。黒印が二つ押されているが、判読できない。

★寺伝によれば、開基の宗真房は俗名を長井源蔵といい、斎藤別当実盛の孫と伝えられる(父親は実盛の息子・斎藤五)。出家して仏門に入り、新川郡福島(現・下新川郡入善町)に天台宗の寺を開いた。越後に配流された親鸞聖人が3日間逗留、弟子となって改宗したのが浄永寺の起源であるという。

【左】大雲寺
飛龍山 大雲寺
宗派:真宗大谷派(東派)
所在地:越後国頸城郡外波村(新潟県糸魚川市外波)

■墨書は「越後外波村/御跡 大雲寺/宝物如別記也」、日付は「七月廿三日」。これも「宝物は別記の如く也」とあるので、別途宝物について書かれた刷り物が渡されていたと思われる。中央下の黒印は判読できない。

★親鸞聖人越後配流の折の旧跡とされる。難所・親不知で立竦〔たちすくみ〕という老いた漁夫が親鸞聖人を背負って渡した後、忽然と消えた。外波村に着いた親鸞聖人は、大文字屋右近太夫平宗照に宿を断られ、軒下の石を枕にして休んだ。この時、立竦について聞かれた右近の妻が持仏の小さな阿弥陀如来(立竦如来)を見ると、腰から下が濡れ、足に砂がついていた。立竦がこの如来であったことを知った右近夫妻は親鸞上人に帰依し、寺を開いたのが当時の始まりであるという。

唯念寺/三条東別院/證誠寺

唯念寺・三条別院・證誠寺の御判

【右-右】唯念寺
一重山 唯念寺
宗派:真宗大谷派(東派)
所在地:信濃国更級郡上氷鉋村(長野県長野市川中島町上氷鉋)
公式サイト:https://dev-bridge.jp/yuinenji/

■墨書は「祖師聖人御跡/信州氷飽邑/一重山 唯念寺」、日付は「八月五日」。黒印は判読できない。

★寺伝によれば、開基の和田義包は和田義盛(鎌倉幕府の重鎮で初代侍所別当だったが、和田合戦で2代執権・北条義時に滅ぼされる)の嫡男・常盛の四男。承久2年(1220)親鸞聖人の弟子となり、唯念坊善入と称した。後に埴科郡屋代郷の一重山に草庵を結び、さらに上氷鉋に移って一宇を建立した。嘉元3年(1305)三世・唯円が覚如から寺号を許され、唯念寺と称したという。

【右-左】三条東別院
三条御坊(真宗大谷派三条別院) ※三条掛所とも
宗派:真宗大谷派(東派)
所在地:越後国蒲原郡三条町(新潟県三条市本町)
公式サイト:https://sanjobetsuin.or.jp/

■墨書は「越後三条/御坊 役者」、日付は「戌八月廿四日」。黒印は「弎條掛所御坊之印」。

★貞享元年(1684)高田(上越市)の浄興寺と新井(妙高市)の願生寺の間で宗義紛争があった。この混乱を収め、中・下越地方の教団を統制するため、元禄3年(1690)に創建された。

【左】證誠寺
山元山 護念院 證誠寺
宗派:真宗山元派 本山 ※江戸時代は聖護院(天台宗寺門派、現在は本山修験宗総本山)の末寺だった
所在地:越前国今立郡横越村(福井県鯖江市横越町)

■墨書は「一向真宗之源/越州横越/山元山證誠寺/役者」、日付は「戌七月二日」。黒印が二つ押されているが、判読できない。

★三門徒の流れを汲む越前四箇本山の一。寺伝によれば、流罪となった親鸞聖人が越後に下向する途中、山本庄(鯖江市北部)で教えを説いたことを基とするという。後、今日に戻った上人は地元の人々の懇請を受け、長男・善鸞上人を派遣。その嫡男・浄如上人が3世となって当地に残り、人々の教化を行った。嘉元2年(1304)後二条天皇より「山元山御念院證証寺」の勅額と勅願所の宣下を受けた文明7年(1475)8世道性のとき、横越の地に寺基を定めた。明応8年(1499)9世善充は先規に倣って参内、上人号の勅許を受けるが、応仁・文明の乱で御所が荒れていることを憂い、修理費を献上した。これを喜んだ後土御門天皇は、当寺の由緒と功績を嘉し、「真宗之源親鸞嫡家」の綸旨を下賜されたという。しかし度重なる混乱で衰微、江戸時代は聖護院に属した。明治になって本願寺派に統合されるが、明治11年(1878)再び独立し、山元派本山となる。

託明寺/本念寺

託明寺・本念寺の御判

【右】託明寺
新江山 託明寺
宗派:真宗大谷派(東派)
所在地:越後国蒲原郡新発田城下寺町(新潟県新発田市中央町)

■墨書は「越後蒲原郡新発田/新江山堅固院託明寺/祖師聖人御跡/月番 長行寺」、日付は「戌九月十六日」。左下の黒印は「録所之印」。

★開基の祐玄房は俗名を斎藤六宗光といい、斎藤別当実盛の次男という(浄永寺開基・宗真房の叔父)。父が戦死した後、東大寺に入って法相宗を学び、越前国坂北郡新江に一宇を開創、新江東大寺と称した。建永2年(1207)親鸞聖人に帰依して改宗し、寺号を専光寺とした。その後、戦乱を避けて尾張国中島郡溝口村(愛知県稲沢市)に移った。天正3年(1575)溝口家の菩提寺となり、溝口秀勝の移封に伴って加賀大聖寺から越後新発田へと移転した。寛永8年(1631)寺号を託明寺に改める。溝口家が曹洞宗に改宗した後も、新発田藩内真宗寺院の僧録所とされた。

★月番の長行寺は現在の信行寺(新発田市中央町)のようである。

【左】本念寺
頂永山 本念寺
宗派:真宗大谷派(東派)
所在地:陸奥国岩瀬郡長沼村(福島県須賀川市長沼)
公式サイト:http://honnenji.net/

■墨書は「大祖聖人三日御教化地也/御旧跡/奥州岩瀬郡長沼宿/頂永山定覚院/本念寺」、日付はない。左下の黒印は判読できない。

★延文3年(1358)会津芦名氏の家臣・新国氏が本願寺3世・覚如上人の法弟・玄栄を招き、頂永山太子寺を開創して菩提寺としたことに始まる。以後、新国氏に従って移転した。永禄9年(1566)長沼の現在地に移り、寺号を本念寺と改めた。

★「大祖聖人三日御教化之地」とあるように、親鸞聖人が当地で教えを説いたという伝承があったのだろう。

福井西別院/松任本誓寺

福井西別院・本誓寺の御判

【右】福井西別院
福井西御坊(本願寺福井別院) ※通称/西御堂・福井西別院
宗派:浄土真宗本願寺派(西派)
所在地:越前国足羽郡福井城下表御堂町(福井県福井市松本)
公式サイト:http://fukui-hongwanji.jp/

■墨書は「越州福井/本願寺役所/當番 宗源寺」、日付は「戌七月四日」。黒印は「福居御坊」。

★文明3年(1471)蓮如上人が吉崎御坊を建立。同7年(1745)上人が吉崎を退去した後、朝倉敏景の請を受け、一乗谷に移転したことを起源とする。天正13年(1585)北ノ庄城主・堀秀政が北ノ庄(後の福井)柳町に寺地を寄進、堀秀治の時代に堂宇を建立した。万治2年(1659)現在地に移転する。

★当番の宗源寺は福井市田原の宗源寺だと思われる。

寛政7年(1795)の順拝帳にも御判がある。

【左】松任本誓寺
坂本山 本誓寺 ※通称/松任本誓寺
宗派:真宗大谷派(東派)
所在地:加賀国石川郡松任町(石川県白山市東一番町)

■墨書は「加州松任/祖師聖人御旧跡/坂本山本誓寺/當番 役者」、日付は「七月十一日」。右上の黒印は「坂本山」、左下は「本誓寺役僧」。

★松任四ヶ寺の一。寺伝によれば、元は歓喜心院無量寿寺と称し、養老年間(717~24)に開創された泰澄上人ゆかりの天台寺院であった。承元元年(1207)住職の円政が越後に下向する親鸞に帰依し、坂本山本誓寺と改称したという。重要文化財の『大般若経』や県文化財の『版本 三帖和讃並正信念仏偈』など多くの文化財を蔵する。

寛政7年(1795)の順拝帳にも御判がある。

吉崎東別院/長円寺

吉崎東別院・長円寺の御判

【右】吉崎東別院
吉崎御坊(真宗大谷派吉崎別院) ※通称/吉崎東別院
宗派:真宗大谷派(東派)
所在地:越前国坂井郡吉崎浦(福井県あわら市吉崎)
公式サイト:http://www.yoshizakibetsuin.com/

■墨書は「越州吉崎/本願寺掛所/蓮如上人御旧跡/願慶寺」、日付は「七月五日」。左下の黒印は「吉崎道場」であろう。

★文明3年(1471)蓮如上人が吉崎山の頂に坊舎を建てたことに始まる。同7年(1475)蓮如上人が退去した後、永正3年(1506)加賀一向一揆の侵攻を退けた朝倉氏によって破却される。本願寺の東西分裂の後、東本願寺は吉崎総道場願慶寺を御坊留守居としていたが、享保6年(1721)本山掛所吉崎御坊を建立、延享4年(1747)再建。これが現在の吉崎東別院である。

寛政7年(1795)の順拝帳にも御判がある。

【左】長円寺
東照山 長円寺
宗派:真宗大谷派(東派)
所在地:加賀国能美郡小松町(石川県小松市本折町) ※昭和7年(1932)上本折町に移転。

■墨書は「当寺開基了珍法師/蓮如上人御跡/霊宝略之/東照山 長圓寺」、日付は「七月九日」。左下の黒印は「長」か?

★元は東照山妙覚院と称する台密兼学の寺で、能美郡粟生郷中村(石川県能美市か)にあったという。宝徳元年(1449)初めて北陸に下向した蓮如上人は正月16日から2月16日まで妙覚院に留錫した。住職の亮海は蓮如に帰依し、法名を了珍坊玄覚、後に賢覚と改めた。応仁の乱が起こると、賢覚は京都に入って本願寺を守護したため、これを喜んだ蓮如上人から本尊の画像と長円寺の寺号を与えられた。天正年間、柴田勝家の軍が加賀に入った際、中村を離れて各地を流浪。慶長8年(1603)再び中村に戻るが、承応元年(1652)小松の本折町に移転した。昭和7年(1932)上本折町の現在地に移った。

金沢西別院/極性寺

金沢西別院・極成寺の御判

【右】金沢西別院
金沢西御坊(本願寺金沢別院) ※通称/西別院
宗派:浄土真宗本願寺派(西派)
所在地:加賀国石川郡金沢城下西御坊町(石川県金沢市笠市町)
公式サイト:http://www.incl.ne.jp/honganji/

■墨書は「加州/御坊 役所」、日付は「戌七月十二日」。中央の黒印は「金澤末刹」と思われる。下の黒印は判読できない。

★延元4年(1339)本願寺3世・覚如上人が草庵を結び、本源寺と名付けたことに始まると伝えられる。天文15年(1546)本願寺10世・証如上人の時に金沢御堂(尾山御坊)が建立される。天正8年(1580)佐久間正盛によって攻略され、跡地は金沢城となる。同11年(1583)前田利家が安江郷に寺地を寄進し、再興された。慶長16年(1611)現在地に移転。

【左】極性寺
館定山 極性寺
宗派:真宗大谷派(東派)
所在地:越中国婦負郡富山城下手伝町(富山県富山市安田町)

■墨書は「高祖聖人御跡/越中富山木(?)町/館定山 極成寺/聖人御■■■/御■■■アリ/名■■■■/霊宝縁起■■■■■/■■」、日付は「戌七月十八日」。二つの朱印は判読できない。左下の黒印は「役僧」。

★開基は親鸞聖人の直弟子である越中三坊主の一人・教順房。元は館定山極成寺と称する真言寺院で新川郡館の里(富山市水橋舘町)にあったという。建保元年(1213)頃、住職の恵明院は親鸞聖人に帰依し、教順房の法名を賜った。同じく三坊主の持専房・願海房とともに親鸞聖人に従って越後国府に赴き、翌年本坊に帰って寺号を極性寺と改めた。その後、兵乱のために各地を転々としたが、寛永元年(1624)富山の現在地に移り、現在に至る。

高田本山専修寺/本泉寺

専修寺・天満別院の御判

【右】高田本山専修寺
高田山 専修寺
宗派:真宗高田派本山
所在地:伊勢国奄芸郡一身田村(三重県津市一身田町)
公式サイト:http://www.senjuji.or.jp/

■墨書は「勢州一身田/高田山専修寺/御門跡/御山門 厚源寺 役僧」、日付は「戌五月五日」。左下の黒印は判読できない。

★下野国高田の専修寺の10世・真慧は東海・北陸に教線を拡大。伊勢の門徒に請われ、また布教拡大の拠点とするため、一身田に無量寿院を建立したことを起源とする。天文12年(1543)高田の専修寺が兵乱で焼失し、専修寺住職が一身田に定着するようになったことから、一身田が教団の中心となり、専修寺と呼ばれるようになった。現在は下野国高田の専修寺を本寺、一身田の専修寺を本山と呼んでいる。

★「厚源寺」は専修寺の塔頭。

【左】本泉寺
松扉山 本泉寺
宗派:真宗大谷派(東派)
所在地:摂津国大坂天満鳴尾町(大阪市北区天神西町) ※明治30年(1897)四條畷市に移転。

■墨書は「摂州天満/堀川御堂/役者」、日付は「寛政二戌年五月廿」。中央下の黒印は「堀川御堂」、左下の黒印は判読できない。

★『摂津名所図会大成』に「天満堀川鳴尾町にあり。俗に堀川の御堂といふ」とある。寺伝によれば、嘉吉2年(1442)本願寺6世巧如の子・如乗が加賀国河北郡二俣村(金沢市二俣町)に一宇を建立したことに始まる。宝徳元年(1449)法主就任前の蓮如が滞在し、堂宇を整備したともいう。長享元年(1487)3世蓮悟(蓮如の七男)は加賀国河北郡若松村(金沢市若松町)に坊舎を設け、若松本泉寺と呼ばれるようになる。波佐谷松岡寺・山田光教寺とともに賀州三ヶ寺と呼ばれ、加賀一向一揆を指導した。しかし享禄4年(1531)大小一揆で藤島超勝寺・和田本覚寺の勢力に敗れ、若松本泉寺は焼失した。その後、4世実悟(蓮如の十男)が河内国茨田郡世木村(大阪府守口市高瀬町)に本泉寺を再興、5世教恵の時、大坂天満の鳴尾町(大阪市北区天神石町)に移転。さらに明治30年(1897)北河内郡甲可村(四條畷市蔀屋本町)に移転する。なお、二俣の坊舎には井波瑞泉寺の証心の子・心祐が入り、本泉寺として再興した(金沢市二俣町の本泉寺)。

唯念寺

唯念寺の御判

【全】唯念寺
兜率山 唯念寺
宗派:真宗大谷派(東派)
所在地:近江国犬上郡四十九院村(滋賀県犬上郡豊郷町四十九院)

■裏表紙に書かれている。墨書は「江州兜率山四十九院/唯念寺/當院者開基行基菩薩天平年中/所建之古霊場千有余年不■地也/實如上人之御時永正年中帰真宗教如/上人御滞留(?)之遺跡也」。

★古くは兜率山四十九院と称した。天平3年(731)行基菩薩が近江国に開創した四十九ヶ所の寺院のうち、最後に建立されたことから名付けられたと伝えられる。聖武天皇の勅願所とされ、元は法相宗で天台宗を兼ねた。文和3年(1354)後光厳天皇が近江に行幸した際、行在所としたという。永正年間(1504~21)實如上人のときに真宗に改宗し、唯念寺と称した。

寛政7年(1795)の順拝帳にも御判がある。

寛政年間 浄土真宗の順拝帳
浄土真宗の門徒による寛政2年(1790)と寛政7年(1795)の順拝帳。真宗の順拝帳としては初期のものと思われる。この2冊は別々に入手したものでお互いに関係ないが、時期が近く、収められた御判の数も多くないので、まとめて紹介する。 【1】寛政...

【1】寛政2年(1790)浄土真宗の順拝帳

【2】寛政7年(1795)浄土真宗の順拝帳(1)

【3】寛政7年(1795)浄土真宗の順拝帳(2)

【4】寛政7年(1795)浄土真宗の順拝帳(3)

※参考
・日本歴史地名大系(平凡社)
・各寺院公式サイト
・新発田市仏教会公式サイト
・白山市公式サイト
・『石川県能美郡誌』(国会図書館デジタルコレクション)
・『二十四輩順拝図絵』(国会図書館デジタルコレクション)
・『親鸞聖人二十四輩順拝記』(国会図書館デジタルコレクション)
・Wikipedia

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