名称 | 本尾山 朱雀院 種間寺 |
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御本尊 | 薬師如来 |
所在地 | 高知県高知市春野町秋山72 [Mapion|googlemap] |
【本尊真言】
おん ころころ せんだり まとうぎ そわか
【御詠歌】
世の中にまける五穀のたねまでら 深き如来の大悲なりけり
【略縁起】
敏達天皇の御代(572~85)四天王寺の造営のために百済から招かれた工匠や仏師が、寺の完成後に帰国する途中、土佐沖で暴風雨に遭ったため当地に上陸した。そして海上安全のために薬師如来の像を刻み、本尾山の頂上に祀ったことを起源とするという。後に弘法大師がこの像を本尊として寺を開創し、唐から持ち帰った五穀の種をまいたので種間寺と称するようになったという。安産祈願の底抜け柄杓で知られる。
種間寺の納経(御朱印)
(1)平成元年拝受の納経。揮毫は薬師如来の種字「バイ」に「薬師如来」。中央の宝印は火炎宝珠に薬師如来の種字「バイ」。右上の印は「四国第三十四番」、左下は「本尾山朱雀院種間寺」。
(2)平成19年に拝受した納経。揮毫・朱印ともに平成元年のものと同じ。
江戸時代の納経
(1)天保11年(1840)の納経。揮毫は「奉納」「金堂薬師如来」「種間寺」。中央の宝印は火炎宝珠に薬師如来の種字「バイ」。右上の印は「第三十四番」、左下は「本尾山朱雀院種間寺」。
(2)天保12年(1841)の納経。揮毫は「奉収」「医王仏(薬師如来の別名)」「土佐州」「種間寺」。江戸時代の納経には「奉納経」のかわりに「収庫」とする例があり、「奉収」は「奉収庫」ということであろう。納経する立場では「納」、受け取る立場では「収」ということか。朱印は天保11年のものと同じ。
明治時代の納経
(1)明治38年(1905)の納経。揮毫は「医王殿(薬師如来を祀る仏殿)」。中央の宝印は火炎宝珠に薬師如来の種字「バイ」。右上の印は「四国第三十四番」、左下は「本尾山朱雀院種間寺」で、いずれも現在のものとほぼ同じ。
種間寺について
山号 | 本尾山(もとおざん) |
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寺号 | 種間寺(たねまじ) |
院号 | 朱雀院(しゅじゃくいん) |
御本尊 | 薬師如来 |
所在地 | 高知県高知市春野町秋山72番地 |
創建年代 | 弘仁年間(810~24) |
開山 | 弘法大師 |
宗派等 | 真言宗豊山派 |
文化財 | 〈重文〉木造薬師如来坐像 |
覚え書き
田園地帯の真ん中にある、すっきりと手入れの行き届いた境内。鎌倉時代の説話集『古事談』『十訓抄』などに「胤間寺」として登場する。
寺伝によれば、用明天皇の御代(585~87)四天王寺造営のために百済から招かれていた工匠や仏師達が、寺の完成の後、帰国の途についた。ところが土佐沖で暴風雨にあったため、この地に上陸した。そして、海上安全を祈って薬師如来像を刻み、本尾山の頂に安置したことを起源とする。
弘仁年間(810~24)当地を訪れた弘法大師が、この薬師像を本尊として寺院を建立した。この時、唐から持ち帰った五穀の種を蒔いたので、種間寺と称するようになったとされる。天暦年間(947~57)には村上天皇が藤原信家を遣わし、「種間」の勅額を下賜された。
『古事談』『十訓抄』などに「白紙の般若」にまつわる次のような説話が記されている。
土佐国府のある在庁官人(国府の実務官僚で、多くは現地の地方豪族だった)が種間寺の住職に「自分は大般若経(600巻からなる)写経の大願があるので協力してもらいたい。費用はこちらで支払うので、同輩にも声をかけて書写してもらいたい」と約束した。
その後、数年経っても費用の支払いはなかったが、住職は善縁によって写経できることを喜び、自ら心を奮い立たせてようやく完成させた。そして件の在庁官人に「約束の写経ができました。費用は後々でもいいので払ってください。協力して書いてもらった仲間がたくさんいるのです。今はまず法要を行いましょう」と言った。
喜んだ願主の在庁官人が法要を行い、供養の願文を読み上げていると、にわかにつむじ風が起こって経巻をことごとく空中に吹き上げた。法要に集まった人々が驚いていると、しばらくして白紙になった経巻が落ちてきた。そこにはただ大きな文字で「檀那(施主=費用を負担するはずの在庁官人)は誠がないので、用紙はこの地に返す。経師(住職のこと)は誠があるので、文字は霊鷲山(お釈迦様の浄土)に留めておく」という偈文(詩)だけが書いてあったという。
寂本の『四国徧礼霊場記』には在庁官人ではなく藤原信家の逸話として記されている。白紙の経巻は冷泉天皇の時に宮中に収められ、かわりに大般若経1部(600巻)と十六善神の絵一幅が下賜されたということである。
御本尊は「安産の薬師さん」と呼ばれ、安産祈願の底抜け柄杓で知られる。祈願を頼む人は柄杓を預ける。すると、寺では柄杓の底を抜いて、二夜三日の祈祷を行い、御札ともに渡す。無事にお産が済むと、お礼参りの時にその柄杓を納める。境内の子安観音堂には、そうして奉納された柄杓がたくさんぶら下げられている。
奥の院は、山をはさんで海岸側の甲殿地区、旧道から少し入ったところにある。