稱光山 華徳院

華徳院閻魔像

華徳院は、慈覚大師が下野国佐野に創建したと伝えられ、古くは理正院と称したという。慶長年間(1596~1615)浅草蔵前に移転し、運慶蘇生の作と伝えられる閻魔大王を本尊とした。しかし関東大震災で本尊や伽藍を焼失したため、昭和4年(1929)すでに区画整理のために墓地を移していた現在地に移転した。

名称 称光山 長延寺 華徳院
御本尊 閻魔大王
所在地 東京都杉並区松ノ木3-32-11 [Mapion|googlemap]
最寄り駅 新高円寺(丸ノ内線)
高円寺(JR)
バス停:大法寺前
目次

縁起・沿革

華徳院は、称光山長延寺と号する。元は理正院と称し、貞観年間(859~77)慈覚大師円仁によって下野国佐野(現在の栃木県佐野市)に創建されたと伝えられる。

その後、武蔵国霞ヶ関(現在の千代田区)に移転、さらに慶長年間(1596~1615)浅草蔵前天王町(現在の台東区浅草橋)に寺地を拝領し、閻魔堂の別当となって、本尊を閻魔大王とした。延享年間(1744~48)大檀那である堀丹後守直時の法号に因み、華徳院と改めた。

当時の本尊の閻魔大王は運慶蘇生の作と伝えられる丈六の坐像であった。伝承によれば、鎌倉で開眼供養をした後、武蔵国都川のほとりに遷すべしという夢告を受けたという。また、同じ木で彫られたという奪衣婆なども祀られており、「蔵前の閻魔堂」として信仰を集めていた。1月と7月の16日の縁日には多くの参詣者で賑わったという。

天保9年(1838)の『東都歳時記』1月16日「閻魔参り」を見ると、そこで挙げられている100ヶ寺社の冒頭に「浅草御蔵前 長延寺 閻魔丈六 倶生神 奪衣婆立像」とある。閻魔大王、奪衣婆のほかに倶生神(常に人の両肩にいて善悪の行為を記録し、死後、閻魔王に報告する神)の像も祀られていたことがわかる。

『江戸名所図会』には「大倉前 閻魔堂」として描かれており、当時の繁栄ぶりがわかる。

華徳院『江戸名所図会』

『江戸名所図会』大倉前閻魔堂

国会図書館デジタルコレクション

同書には、閻魔像について「その丈一丈六尺あり」としている。通常、丈六仏というと、坐像の場合は半分の8尺(約2.43m)である。しかし、『四谷区史』(昭和8年)には太宗寺の閻魔像について「一丈八尺であって、蔵前華徳院の丈六の像に勝ること二尺であって、江戸第一の巨像である」とあるので、もしかすると高さ1丈6尺(約4.85m)の坐像だったのかもしれない。

しかし大正12年(1923)関東大震災のため伽藍や本尊をはじめとする仏像は焼失してしまった。そこで昭和4年(1929)区画整理のために墓地を移転していた現在地に寺基を移して本堂を建立、牛込行元寺の閻魔王像を迎えて本尊とした。

蔵前の旧地には日光輪王寺から迎えた閻魔王像を祀り、境外仏堂としていたが、昭和20年(1945)戦災のため焼失。さいわい閻魔王像は無事だったので、当寺に遷された。

御朱印

  • 華徳院の御朱印

平成22年拝受の御朱印。中央の朱印は閻摩天(閻魔大王)の種字「エン」、左下は「天台宗華徳院」。

写真帖

  • 参道

    参道

  • 本堂

    本堂

メモ

午前中、御朱印拝受のために参拝すると、ご住職が留守ということだった。夕方には帰ってこられるということだったので、他の寺社を参拝した後、一日の最後に再度参拝。御朱印を待つ間、本堂内で参拝させていただいた。それほど大きくはないが、赤い顔に厳めしい顔の立派な像で、その前には閻魔王の本地とされる地蔵菩薩の像が祀られている。

華徳院の概要

山号 称光山〔しょうこうざん〕
寺号 長延寺〔ちょうえんじ〕
院号 華徳院〔けとくいん〕
御本尊 閻魔大王
所在地 東京都杉並区松ノ木三丁目32番11号
創建年代 伝・貞観の頃(860頃)
開山 慈覚大師円仁
宗派等 天台宗
巡拝 江戸三大閻魔

交通アクセス

□新高円寺駅(丸ノ内線)より徒歩3分
□高円寺駅(JR中央線)より徒歩14分、またはバス
■関東バス五日市街道営業所行「大法寺前」下車徒歩2分

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