川勾神社 | 神奈川県中郡二宮町

川匂神社
平成18年撮影

川勾神社は相模国の二宮で、かつては二宮大明神とも呼ばれた。源頼朝が北条政子の安産を祈願して神馬を奉納したのをはじめ、小田原北条氏が鬼門鎮護の神とし、徳川家康が朱印地50石を寄進するなど武門の崇敬が篤かった。相模の国府祭に参加する五社の一つであり、寒川神社と上座を争う座問答は殊に名高い。

正式名称 川勾神社〔かわわじんじゃ〕
御祭神 大名貴命 大物忌命 級津彦命 級津姫命 衣通姫命
社格等 式内社 相模国二宮 旧郷社
鎮座地 神奈川県中郡二宮町山西2122 [Mapion|googlemap]
公式サイト https://kawawajinja.com/
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目次

御朱印

川匂神社の御朱印
(1)
川匂神社の御朱印
(2)

(1)平成18年拝受の御朱印。朱印は「相模國二宮延喜式内川勾神社」。

(2)令和4年拝受の御朱印。朱印は「相模國二宮延喜式内川勾神社」だが、新しいものになっているようだ。

川匂神社の御朱印
(3)
川匂神社国府祭の御朱印
(4)

(3)令和4年拝受、国府祭の限定御朱印。朱印は(2)と同じ。台紙には国府祭で奉納される「鷺の舞」が描かれている。毎年、国府祭の限定御朱印は、国府祭に参加する6社共通で授与されている。国府祭当日は現地で、当日以外は各神社で授与される。令和4年はコロナ禍で神職による神事のみが執り行われたため、各神社での授与のみであった。

(4)令和7年拝受、国府祭の限定御朱印。国府祭当日、神揃山の斎場で拝受したもの。台紙の図柄は国府祭の六所神社における「七度半迎神の儀」と「道清め」の様子。

境内社の御朱印

東五社の御朱印
(5)
西五社の御朱印
(6)

(5)末社・東五社の御朱印。朱印は「天照皇太神宮八幡大明神春日大明神相模國式内十三座菊久離姫咲耶姫粟嶋八百萬神阿屋葉造辨天社」。

(6)末社・西五社の御朱印。朱印は「仲哀天皇仁徳天皇武内大臣素戔嗚尊猿女命愛宕社天神社」。

※兼務社の吾妻神社の御朱印も拝受できる。

川勾神社について

拝殿
拝殿(平成18年撮影)鳳凰の幕が印象的だった。

御祭神

■大名貴命
■大物忌命
■級津彦命
■級津姫命
■衣通姫命

公式サイトや『平成「祭」データ』などによる。『新編相模国風土記稿』『神社覈録』は衣通姫命・級津彦命・大物忌命の三座、『特選神名牒』は衣通姫命一座、『明治神社誌料』は大名牟遅命を主祭神とし、衣通姫命・志那都毘古命を配祀とする。

御由緒

川勾神社は相模国の二宮とされ、延喜式神名帳所載の相模国十三座の一である。かつては二宮大明神、あるいは二ノ宮明神社と称された。『新編相模国風土記稿』には「二ノ宮明神社 往古は川勾神社と称す」とある。二宮町の町名は当社に因んでいる。

社号は鎮座地の地名によるもので、今も附近に川匂〔かわわ〕の地名が残る。神社が鎮座するのは山西だが、江戸時代の初めまで山西村と川匂村は一つの村であった。なお、現在の地名は「川匂」と書くが、「川勾〔まが〕る」の意味なので本来は「川勾」が正しい。現在でも当社の社号は「川勾」とする。

記録にはないが、元は現社地の北500mほどのところに鎮座していたと考えられている。大正4年(1915)この旧神領地の水田より奈良時代のものと推測される丸木舟が発掘された。水田に浮かべて田植えなどに使う田舟だと考えられており、二宮町の重要有形文化財に指定されている。

社伝によれば、第11代垂仁天皇の御代、磯長国造〔しながのくにのみやつこ〕の阿耶葉造〔あやはのみやつこ〕が勅命により磯長国鎮護のために創祀したとされる。磯長国〔しながのくに〕は師長国とも書き、現在の神奈川県西部の海岸部に相当すると考えられている。後に現在の県中央部に当たる相武国〔さがむのくに〕と併せて相模国となった。

川勾神社は磯長の一宮であったとされ、相模国が成立した際、相武の一宮であった寒川神社とその座を争ったと伝えられる。その模様を儀式化したのが5月5日の国府祭で行われる座問答だとされる。

神社に伝わる伝承では、磯長国造・大鷲臣命、相模国造・穂積忍山宿禰、同国造・弟武彦命らの崇敬を受け、日本武尊は東征の際に奉幣祈願し、第19代允恭天皇は皇妃・衣通姫の安産を祈願したという。

建久3年(1192)源頼朝は北条政子の安産祈願のため、神馬を奉納した。また、社殿の造営や社領の寄進も行っている。建長4年(1252)宗尊親王が鎌倉に下向した際には、将軍事始めの儀として幣帛神馬を奉納した。

応永(1394~1428)の頃、兵火にかかって社殿・宝蔵等をすべて焼失し、随神の木像だけが残ったという。応永30年(1423)に再建された。

当社が小田原の丑寅に当たるため、小田原北条氏から鬼門鎮護の神として格別の崇敬を受けた。50貫文の地を寄進され、たびたび社殿の造営や奉幣があったと伝えられる。

天正19年(1591)徳川家康は先例によって社領50石を寄進している。徳川家康が九州名護屋に出陣した際には陣中に赴いて祈禱札を献上し、非常に喜ばれたという。元和3年(1617)先例によって朱印状を下賜されてからは隔年で年頭に江戸城に登城し、御祓札を献上するのが例となった。

江戸時代には山西村・川勾村・二宮村・中里村・一色村・西窪村の鎮守とされた。旧別当は二宮山成就院。因みに国道1号線近くの茶屋薬師堂に祀られている薬師如来(二宮町指定重要有形文化財)は川勾神社の本地仏であった。

明治6年(1873)郷社に列格。

昭和5年(1930)県社昇格を申請し、昭和7年(1932)県社の規格に合った社殿の造営を条件に県社昇格の内示を受けた。これを受けて社殿の新築造営工事に着手したが、戦争等でなかなか進まない中、終戦を迎えて社格制度は廃止された。さらに戦後の困難な状況を経ながらも昭和26年(1951)現社殿が落成した。

境内社

拝殿前の左右に末社の東五社と西五社の小祠がある。

■東五社

東五社

一、天照皇太神宮・八幡大明神・春日大明神
二、相模国式内社十二社
三、菊久理姫・咲耶姫・淡島
四、八百萬神・阿耶葉造
五、弁天社

■西五社

西五社

一、仲哀天皇・仁徳天皇・武内大臣
二、素戔嗚尊
三、猿女命
四、愛宕社
五、天神社

『新編相模国風土記稿』には、「末社 神明・八幡・春日合社 当国式内神十二座合社 菊久理姫・咲耶姫・淡島合社 八百萬神・阿耶葉造合社 弁天社 已上東五社と云、仲哀天皇・仁徳天皇・武内大臣合社 素盞嗚尊 猿女命 愛宕 天神 已上西五社と唱ふ。香取・鹿島・息栖・道祖神合社 稲荷・山神合社 已上の末社破壊して未だ再建ならず」とあるので、当時は東西に五社ずつ末社の社殿が並んでいたのであろう。

国府祭

国府祭座問答
国府祭 座問答

端午祭とも称し、かつて相模の国衙が置かれた中郡大磯町国府本郷の神揃山と麓の大矢場の祭場に一宮寒川神社、二宮川勾神社、三宮比々多神社、四宮前鳥神社、一国一社八幡宮・平塚八幡宮の神輿が集まり、総社・六所神社に御分霊を奉納する神事を行う。

特に神揃山で行われる寒川神社と川勾神社の神職が上座を争う座問答が名高い。一宮・寒川神社の神職が虎の皮を敷いて座を取ると、二宮・川勾神社の神職がより上の場所に虎の皮を敷いて座を取る。これを三度ずつ繰り返すと、三宮・比々多神社の神職が「いずれ明年まで」と仲裁する。往古、相武(さがむ)と磯長(しなが)の国を合わせて相模国が成立した時、相武の一宮の寒川神社と磯長の一宮の川勾神社の間で国の主神が争われた時の模様を儀式化したものとされる。

写真帖

社号標

参道入口の社号標。「郷社 川勾神社」とある。大正7年(1918)の建立で、揮毫は海軍中将上村翁輔。

参道

社号標の脇から神社の方向を望む。神社は正面の小高い丘の上に鎮座する。周囲はのどかな田園風景が広がる。

忠魂碑

忠魂碑。昭和7年(1932)建立。元の碑は明治43年(1910)に建立されたが関東大震災で倒壊、その後補修されたが昭和6年(1931)の風害で再度全壊したため、新たに建て直されたものという。

鳥居

鳥居。

伊藤博文揮毫「川勾神社」扁額

伊藤博文揮毫「川勾神社」扁額。二宮町出身の医師・教育者・政治家の伊達時が明治30年(1897)伊藤博文に揮毫を依頼し、翌31年1月に奉納したもの。

石段

鳥居をくぐると石段があり、その上に随神門が見える。

神門

珍しい茅葺きの随神門。左右の随神像は応永年間(1394~1428)の兵火を免れた古像という。

手水舎

手水舎。

神楽殿

神楽殿。

御神木夫婦杉

以前は手水舎と神楽殿の間に御神木の夫婦杉があったが、1本が平成23年(2011)の台風15号で傾木したため伐採したとのこと。令和3年(2021)に完成した売札所にはこの御神木が使われているという。

石鳥居と御神木

文久元年(1861)建立の石鳥居。昭和45年(1970)道路改良工事による大鳥居新設に伴い撤去された。伊藤博文揮毫の扁額はこの鳥居に掲げられていた。

境内

川勾神社の境内。

東五社

末社・東五社。拝殿の手前、東側に鎮座する。

西五社

末社・西五社。拝殿の手前、西側に鎮座する。

拝殿

拝殿。昭和7年(1932)県社昇格の内示を受けて新築造営に着手し、昭和26年(1951)落成した。

本殿

本殿。同じく昭和26年(1951)落成。

メモ

小田原市との境近くの小高い丘の上に鎮座する。石段を登ると珍しい茅葺きの随神門があり、その先に清浄な境内が広がる。社殿は県社昇格のために造営されたものというだけあって立派なものである。

初めての参拝は平成18年9月の日曜日、相模国六社巡りで参拝。車のお祓いや初宮参りの参拝者が次々訪れ、地元の人から熱く敬われている様子がうかがわれた。

二度目の参拝は令和4年の5月。この年はコロナ禍で国府祭は神職のみの神事として行われたのだが、その前日に再度六社の巡拝をした。大鳥居前の伊藤博文揮毫の扁額が補修されていたのをはじめとして境内の整備が行われ、スッキリとした印象になっていた。

交通アクセス

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