御穂鹿嶋神社は、本芝両社と称されていた御穂神社と鹿嶋神社を平成17年(2005)合祀したもので、翌平成18年(2006)旧鹿嶋神社境内に新社殿が完成した。
御穂神社は、後醍醐帝に諫言するも容れられず、当地に隠棲した藤原藤房卿を祀るとも、駿河国三保から移り住んだ漁師たちが故郷の御穂神社から御分霊を勧請したとも伝えられる。鹿嶋神社は常陸国の鹿島神宮に祀られていた祠が流れ着き、「この浦に鎮まり坐すべし」という託宣があったため、当地に祀られるようになったという。
正式名称 | 御穗神社〔みほじんじゃ〕 |
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通称 | 御穂鹿嶋神社〔みほかしまじんじゃ〕 |
御祭神 | 藤原藤房卿 武甕槌命 |
社格等 | 旧村社 |
鎮座地 | 東京都港区芝4-15-1 [Mapion|googlemap] |
御朱印
(1)平成17年に拝受した御朱印。揮毫は「御穂神社」「鹿嶋神社」。中央の朱印は三つ巴の神紋、左下の印は「御穂鹿嶋社務所印」。
(2)平成20年に拝受した御朱印。揮毫は「御穂鹿嶋神社」。朱印は「美穂鹿島神社」。
御由緒
御穂鹿島神社は平成17年(2005)に御穂神社と鹿嶋神社を合祀、新社殿に奉斎したものである。両社はもともと独立した別の神社だが、同じ本芝に鎮座して古くから本芝両社と呼ばれ、宮司は兼任で(江戸時代も別当は兼任)、祭礼も同日だった。
御穂神社は藤原(万里小路)藤房を祀る。藤房は後醍醐天皇の側近で、元弘の変には笠置山に随従、後に捕らえられて常陸に流された。建武の中興がなると京へ戻るが、論功行賞の不公平を後醍醐帝に諫言、それが入れられなかったために隠棲、そのまま行方不明となり、その後の足跡にはさまざまな説のある人物である。
社伝によれば、後村上天皇の御代(1339~68)、芝浦に一人の気高い老翁が庵を結び、村人を教え導いた。翁の亡くなった後、村人たちはその徳を慕い、庵の跡に社を建て、尉殿の宮と崇めた。この老翁が藤原藤房であったという。
また、駿河国三保(静岡市清水区)から当地に移り住んだ漁師たちが、故郷の氏神である御穂神社の分霊を勧請したものという説もある。
鹿嶋神社は、寛永年間(1624~44)の創祀と伝えられる。ある時、一つの祠が流れ着いた。中を見ると一本の御幣があったが、海上を漂ってきたにもかかわらず、少しも濡れていなかった。そこで村人たちは、この祠を海辺に安置した。その後、その祠は鹿島神宮の境内に祀られていたものであることがわかり、元の場所へ祀られた。ところが、再び流れ出して同じ場所に流れ着き、「この浦に鎮まり坐すべし」と託宣があったため、この地に祀るようになったという。
平成17年(2005)社殿の老朽化により、鹿嶋神社を御穂神社に合わせ祀った。さらに翌18年(2006)11月25日、旧鹿嶋神社の社地に新社殿が完成、厳かに遷座祭が執り行われた。
補足
合祀後の社名について、一般には「御穂鹿嶋神社」と呼ばれ、社号標などもそうなっているが、宗教法人としての名称は「御穗神社」のようである。社地は鹿嶋神社、社号は御穂神社を継承する形のようだ。
写真帖
メモ
御朱印を拝受したときは、新しい社殿が工事中で、旧御穂神社のほうに祀られていた。連絡先は三田春日神社になっており、御朱印もそちらでいただいた。新社殿に遷座後は社務所で対応していただける。
御穂鹿嶋神社の概要
名称 | 御穗神社 |
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通称 | 御穂鹿嶋神社 |
旧称 | 御穂神社・鹿嶋神社 |
御祭神 | 藤原藤房卿〔ふじわらふじふさきょう〕 武甕槌命〔たけみかづちのみこと〕 |
鎮座地 | 東京都港区芝四丁目15番1号 |
創建年代 | 御穂神社:文明11年(1479) 鹿嶋神社:寛永年間(1624~44) 平成17年(2005)合祀 |
社格等 | 御穂神社:旧村社 鹿嶋神社:旧村社 |
例祭 | 6月10日 |
神事・行事 | 1月1日/元旦祭 2月17日/祈年祭 11月23日/新嘗祭 ※『平成「祭」データ』による |
交通アクセス
□田町駅(JR)より徒歩5分
□三田駅(都営浅草線・都営三田線)より徒歩1分