百草八幡神社(百草八幡宮)

百草八幡神社

百草八幡神社(百草八幡宮)は、創建年代は不詳だが、社宝の石造狛犬に天平の年号があることから古くに遡る社だと考えられている。康平5年(1062)奥州に下向する源頼義が当地を通過した際に再興し、戦勝を祈願した。源頼朝も深く崇敬し、太刀一振を寄進したと伝えられる。

正式名称 八幡神社〔はちまんじんじゃ〕
通称 百草八幡神社〔もぐさはちまんじんじゃ〕
御祭神 誉田別尊 息長足姫命 武内宿禰 源義家
社格等 旧村社
鎮座地 東京都日野市百草867番地 [Mapion|googlemap]
最寄り駅 百草園(京王線)

御朱印

  • 百草八幡宮の御朱印

    (1)

(1)平成18年拝受の御朱印。中央の朱印は「百草八幡宮印」。右下に「日野市百草鎮座」、左下に「社務所印」。

御由緒

御祭神

■誉田別命(応神天皇)
■息長足姫命(神功皇后)
■武内宿禰
■源義家

誉田別尊は第15代応神天皇。八幡宮の主祭神で、八幡大神として知られる。息長足姫命(神功皇后)は第16代仲哀天皇の皇后で、応神天皇の母君に当たる。

武内宿禰は、景行・成務・仲哀・応神・仁徳の五代の天皇に仕えた忠臣で、特に神功皇后の三韓征伐や応神天皇の即位に大きな功績があった。

源義家は源頼義の長男で、石清水八幡宮で元服したことから、八幡太郎の名がある。その子孫から武家の棟梁となった源頼朝や足利尊氏などを輩出している。

『新編武蔵風土記稿』によれば、御神体は木像6躯で、そのうち1体の背に「王仁源義家納」と書かれていたという。1体は女体の坐像。残り4体は立像だが朽損して見分けることができず、銘も剥落しているため何の神像かわからないとする。

一方、『江戸名所図会』は「正殿に安置する神体は、八幡宮・神宮・王仁・津戸明神・武内大臣・源義家公等の木像なり」という別当・松連寺の僧の言葉を紹介している。

御由緒

茂草松蓮寺(江戸名所図会)

『江戸名所図会』茂草 松蓮寺(国会図書館デジタルコレクション)
※左端が百草八幡神社

百草八幡神社(百草八幡宮)は、百草村(古くは茂草とも書いた)の鎮守。江戸時代以前の別当は黄檗宗の慈岳山松連寺(廃寺)であった。創建年代は不詳だが、社宝の石造狛犬に天平の年号があり、古い社であることが推測できるという。

『新編武蔵風土記稿』は、天平年間(729~49)道璿(唐から招かれた渡来僧で、大安寺で律・禅・華厳を広め、東大寺大仏開眼供養会では呪願師を務めた)の高弟・道広が創建したという社伝を紹介している。

康平5年(1062)源頼義が安倍貞任・宗任征討のために奥州に下向する途中、当地を通過した際に八幡宮を再建して戦勝を祈願したとされる。

※ただし、康平5年は源頼義が奥州から京へ凱旋した年であり、奥州への下向であれば永承6年(1051)ということになる。

『江戸名所図会』によれば、源頼義・義家父子は山城国男山八幡宮(石清水八幡宮)の霊土を埋めて社殿を造営し、戦勝を祈願した。そして凱旋の途次、金銅の観世音像を安置し、祭田500石を寄進したという。

建久3年(1192)源頼朝が武運長久を祈願して太刀一振を奉納。『江戸名所図会』や『新編武蔵風土記稿』は頼朝が自ら法華経一部を書写して奉納、その残闕が松連寺に伝わっていたと記す。

その後の歴史は詳らかでないが、天正元年(1573)に社殿を造営。慶長15年(1610)別当・松連寺の方丈などが再建された。その後、寛永9年(1632)・寛文6年(1666)にも修理が行われたという。

元禄14年(1701)別当・松連寺の住職により『武州多摩郡百草村桝井山正八幡宮伝紀』が著された。

明治初年の神仏分離により独立、松連寺は廃寺となった。明治6年(1873)村社に列格。

金銅阿弥陀如来坐像

鎌倉時代の製作で、国の重要文化財に指定されている。

背中に銘文があり、皇帝(後深草天皇)・日本主君(将軍・藤原頼嗣)・当国府君(武蔵国守護・北条時頼)地頭名主の安穏泰平、子孫繁栄と仏道の成就、師匠や両親の菩提を願い、建長2年(1250)施主の源氏某と願主の慶祐により、真慈悲寺に寄進されたことが記されている。

江戸時代以前は百草八幡神社の本地仏として別当・松連寺に祀られていた。松連寺が廃寺となった後、百草八幡神社に引き取られ、秘蔵されていた。一時、氏子総代の元に預けられていたが、昭和48年(1973)境内に奉安殿を設けて安置された。

現在は年1回、秋の例大祭時に公開されている。

別当・松連寺と真慈悲寺について

往古、この辺りには鎌倉幕府の祈願寺とされた真慈悲寺があり、百草八幡宮の本地仏であった阿弥陀如来像の銘文にもその名が見えるが、別当・松連寺の別名(旧名)なのか、別の寺院であったのかはよくわからない。

いろいろな資料を見ても、松連寺と真慈悲寺、百草八幡神社の関係についての明快な説明は見当たらないのだが、真慈悲寺が退転した後、その後身として松連寺が再興されたと考えるのが妥当と思われる。また、真慈悲寺・松連寺と百草八幡神社は、創建から幕末に至るまで一体の存在だったようだ。

真慈悲寺

鎌倉幕府の歴史書である『吾妻鏡』文治2年(1186)2月3日条に、「武蔵国の真慈悲寺はご祈祷の霊場だが、未だ荘園が寄進されていないため、仏は供具の備えがなく、僧は衣鉢の貯えを失っている。有尋という僧が参上し、一切経を安置し、破壊を修理すべきことを申請したので、院主職に補せられた」とある。

また、建久3年(1192)5月8日条には、鎌倉の南御堂(勝長寿院)で営まれた後白河法皇の四十九日の法要に、鶴岡八幡宮など15寺社の僧とともに真慈悲寺の僧が供僧として参列していることが記されている。この時参列したのは3人で、これは浅草寺や大山寺と同数である。

百草八幡宮の本地仏として松連寺に奉安されていた金銅阿弥陀如来坐像は、背中の銘文から、建長2年(1250)施主の源氏某と願主の慶祐により、多西郡吉富郷の真慈悲寺に寄進されたものであることがわかっている(中世、多摩郡は西部の多西郡と東部の多東郡に別れていた。吉富郷は現在の多摩市・日野市東端部・府中市南端部)。

真慈悲寺の所在地は、近年の発掘などにより、百草八幡宮や旧松連寺(現・百草園)を含む真堂谷戸一帯であろうと考えられている。

また、真慈悲寺の廃絶した時期などはわかっていないが、松連寺の由緒にある分倍河原の合戦による伽藍焼失が真慈悲寺のことではないかと思われる。

慈岳山松連寺

新編武蔵風土記稿

『新編武蔵風土記稿』松連寺図(国会図書かデジタルコレクション)

百草八幡宮の別当・松連寺と真慈悲寺の関係を明快に説明した資料は見当たらないのだが、『新編武蔵風土記稿』が引用する「松連寺由来記」や『江戸名所図会』を見る限り、松連寺は自らを真慈悲寺の後身と位置づけていたようである。ただし、当初から松連寺と号していたような記述になっているため、関係がわかりにくくなっているのではないかと思われる。

江戸時代に旧境内仁王塚から長寛元年(1163)・永万元年(1165)・建久4年(1193)の銘がある3基の経筒が見つかった。永万元年のものの蓋裏には「大勧進所百草村 松連寺 修之」、建久4年のものには「日本幕下 一宮別当 松連寺 修之」とあるが、これらは江戸時代以降の追刻とされ、当時から松連寺と称していたとは考えにくい。

『新編武蔵風土記稿』や『江戸名所図会』に従って松連寺の由緒をまとめると、天平年間(729~49)道璿の高弟・道広の勧進により七堂伽藍の道場が建立されたという。

康平5年(1062)鎮守府将軍・源頼義が奥州に下向する際に滞留し、朝敵追討の祈願をした。また、源義家は八幡大菩薩の木像と津戸明神・武内大臣・神宮御体・王仁像を奉納した。

建久年間(1190~98)源頼朝により、源氏累代の祈願所と定められた。古くは枡井山と号したが、この時に「増威山」と改められた。因みに「枡井」は松連寺本堂の後ろにあった泉のことのようだ。建長7年(1249~56)当時の住職・祐慶が相模国から琳長師を招き、天台宗から禅宗に改めた。

しかし、新田義貞と北条氏が戦った分倍河原の合戦のため伽藍は灰燼に帰し、寺領も失われたという。この後の歴史は詳らかでない。

天正年間(1573~93)松連寺住職・義範が小笠原氏・小田野氏らとともに鎮守八幡宮を修造、慶長15年(1610)には海印により方丈が再建された。これについて、文政13年(1830)に建立された松連寺の碑では、慶長年間に新たに庵を建立し、海印を庵主としたとしている。

享保6年(1721)小田原藩主・大久保忠増の正室・寿昌院慈岳元長尼を中興開基、慈光北宗を中興開山として再建。この時、白金の瑞聖寺の末寺となり、黄檗宗に改めたと考えられている。また、山号も寿昌院の法号に因んで慈岳山と改められたという。

8代住職の魯庵は衰微した松連寺を再興するため、新たに松連寺十八景を作り、寺宝を公開して寺の歴史を広く知らせた。以来、風光明媚な場所として知られるようになり、大田南畝や村尾嘉陵をはじめ多くの文人墨客が訪れた。

明治6年(1873)廃寺となり、寺宝の多くが散逸、境内も荒廃した。明治19年(1886)百草村の出身で、横浜で生糸貿易商を営んでいた青木角蔵が松連寺跡を買収、庭園として整備し、百草園と名付けて公開した。その後、昭和32年(1957)に京王電鉄が買収し、京王百草園として今日に至る。

私見

以上の由緒から考えると、まず天平年間創建という伝承を有する枡井山(後に増威山もしくは増井山と改号)真慈悲寺が当地にあり、八幡宮はその伽藍鎮守であったと考えられる。

鎌倉時代には幕府の祈願所として栄えたが、分倍河原の合戦による戦火で焼失、寺領も失われて退転した。

しかし、その後も八幡宮は百草村の鎮守として崇敬されていたのではないだろうか。松連寺住職が方丈の再建に先立って、八幡宮の社殿を造営したというのはそのためではないかと思われる。

また、寺号が松連寺になったことについては、真慈悲寺が焼失した後、塔頭のみが再建されて法統を護持したということも考えられるのではないだろうか。

なお、百草八幡神社の古称について、古八幡宮あるいは古富八幡宮とする資料があるのだが、吉富郷に因む吉富八幡宮が正しいのではないかと思われる。

写真帖

  • 一の鳥居

    一の鳥居

  • 参道

    参道

  • 奉安殿

    奉安殿

  • 境内社

    境内社

  • 狛犬

    狛犬

  • 狛犬

    狛犬

  • 拝殿

    拝殿

メモ

京王百草園駅から急坂を上り、百草園の入口を通りすぎると、百草八幡宮の石段がある。石段を登ると鉄筋コンクリート造の小振りな社殿がある。そのわきにも百草園の出入り口があり、こちらから出入りする人もいるようだ。
拝殿の前に小さな狛犬(というより、どう見ても犬である)がある。新しいものだが、台座に「天平寶字」の文字が刻まれている。社宝の狛犬の複製であろうか。

多摩市の小野神社の兼務社で、神職常駐ではないが、百草園の梅の季節には宮司さんがいらっしゃって御朱印をいただけるとのことである。ただ平成18年は梅の開花が遅いということで宮司さんがいらっしゃらず、やむなく小野神社で御朱印をいただいた。

百草八幡神社の概要

名称 八幡神社
通称 百草八幡宮 百草八幡神社
旧称 桝井山正八幡宮 古富(吉富?)八幡宮
御祭神 誉田別命〔ほんだわけのみこと〕
息長足姫命〔おきながたらしひめのみこと〕
武内宿禰〔たけしうちのすくね〕
源義家〔みなもとのよしいえ〕
鎮座地 東京都日野市百草867番地
創建年代 不詳/伝・天平年間(729~49)?
社格等 旧村社
例祭 9月第3土・日曜日
神事・行事 2月上午の日/初午祭
※『平成「祭」データ』による
文化財 〈重文〉銅造阿弥陀如来坐像

交通アクセス

□京王線「百草園駅」より徒歩約13分。

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