菅原神社(本町田)

菅原神社

本町田の菅原神社は、原町田の町田天満宮、南大谷の天神社とともに町田三天神に数えられる。室町時代の永享年間(1429~41)大沢左近正次が、大沢家の守り本尊であった天神像を井手の沢の山上に奉安したと伝えられる。寛永7年(1630)その子孫の大沢玄蕃が新しく造立した渡唐天神像と社地を寄進し、本町田の鎮守としたという。

正式名称 菅原神社〔すがわらじんじゃ〕
御祭神 菅原道真公
社格等 旧村社
鎮座地 東京都町田市本町田 [Mapion|googlemap]
最寄り駅 町田(JR横浜線・小田急線)
バス停:菅原神社前
公式サイト http://www.sugawarajinja.com/

御朱印

  • 菅原神社の御朱印

    (1)

  • 菅原神社の御朱印

    (2)

(1)平成21年拝受の御朱印。中央の朱印は白抜きで丸に梅鉢の神紋、左下の印は「本町田菅原神社之印」。

(2)平成29年拝受の御朱印。中央の朱印は梅鉢の神紋、左下は「菅原神社之印」。

御由緒

御祭神

■菅原道真公

承和12年(845)文章道家として朝廷に仕えた菅原家に生まれる。幼少の頃より詩歌に優れた才能を見せ、貞観4年(862)18才で文章生となり、貞観9年(867)には文章得業生となった。宇多天皇の信任を受けて要職を歴任、寛平8年(894)には道真の遣唐使の廃止を建言し、以後、国風文化が栄えることとなった。醍醐天皇の下では右大臣として政治に参画した。しかし、左大臣の藤原時平の讒言により太宰府に流された。

延喜3年(903)配流先の太宰府で没する。太宰府では天を怨まず、人をとがめず、ひたすらに皇室の安泰を祈念したという。

その後、京に異変が相次ぎ、道真の祟りとされたことから、朝廷は道真の罪を赦し、本官に復して正二位を贈った。正暦4年(993)には正一位左大臣、さらに太政大臣を追贈された。また道真の怨霊は雷神と結びつけられて天満天神とされ、京の北野に道真を祀る祠が建てられた(北野天満宮)。

生前の道真が優れた学者・詩人であったことから、学問の神として広く信仰されている。

御由緒

菅原神社は本町田の鎮守で、原町田の町田天満宮・南大谷の天神社とともに町田三天神に数えられる。江戸時代以前は天神社と称した。

本町田は村内を鎌倉街道が通り、古くから交通の要衝として開かれた土地である。元は町田村と称していたが、村の南に広がる相之原という草刈場を開発し、原町田として分村したことから、元の町田村は本町田と呼ばれるようになった。

南大谷(江戸時代以前の大谷村)も古い時代に本町田村から分村したと伝えられる。原町田村と大谷村がともに本町田村と同じ菅公を鎮守として祀ったのは、分村以前から村全体の人々によって親しまれていたからだろうという。

社伝によれば、室町時代の永享年間(1429~41)大沢左近正次が柚木大沢村から当地に移り住んだ際、天神像を井手の沢の山上(現社地)に奉安したことを起源とする。この天神像は、正次の七代前の先祖・大沢七郎正次が鎌倉時代の元応年間(1319~21)京の北野天満宮で得た像で、大沢家の守り本尊だったといわれる。

寛永7年(1630)その子孫である大沢玄蕃は、神奈川宿の青木山西向寺(普化宗、廃寺)の開山・寒江清山和尚が新たに造立した渡唐天神と社地を寄進し、本町田の鎮守とした。

寛文5年(1665)には「天神宮寺」と称していたという。享保7年(1722)本殿を再建、天明5年(1785)社殿を造営した。

明治35年(1902)8月に千眼天神社、大六天社、七面社、稲荷社、白山社を5社を合祀した。

昭和61年(1986)拝殿を除く社殿が再建された。平成11年(1999)菅公御神忌千百年祭記念事業として神楽殿、平成24年(2012)には新しい拝殿が造営された。

境内社

■愛宕社
御祭神は迦具土神。勧請の年代は不詳だが、少なくとも明治時代以前には鎮座しており、火伏せの神として信仰を集める。

■弁天社
御祭神は弁財天。平成26年(2014)今井地区から菅原神社境内に遷座した。

■藤木稲荷社
御祭神は宇迦之御魂神。平成29年(2017)向地区から菅原神社境内に遷座した。

井手の沢古戦場

菅原神社から町田市立体育館、市営グランド一帯は井手の沢古戦場として東京都の旧跡に指定されている。

鎌倉時代、町田は鎌倉と武蔵府中から上野・信濃北部・越後方面を結ぶ鎌倉街道の要衝だったが、その中心となったのが菅原神社周辺の宿や井手の沢であった。鎌倉時代の宴曲抄『善光寺修行』には「かれいい食うべしいにしえも、かかりし井手の沢辺かとよ、小山田の里に来にけらし」と詠まれている。武蔵府中からこの辺りまでは起伏の多い丘陵地帯だが、ここから鎌倉までは一気に押し下ることができる。

建武2年(1335)北条高時(鎌倉幕府最後の執権)の遺児・北条時行が、鎌倉幕府再興のために挙兵した中先代の乱において、鎌倉から出陣した足利直義は井手の沢で時行の軍を迎え撃った。これが井手の沢の合戦で、時行の軍は足利勢を打ち破り、鎌倉に入った。

しかし、足利尊氏が直義と合流して反撃に転じ、激戦の末、鎌倉を奪還した。時行が鎌倉を支配できたのは20日余りであった。

社殿に向かって左側の少し高くなっているところに、「井手の澤」の碑が建っており、東京都教育委員会による井手の沢古戦場の説明板がある。また、参道の左手には井手の沢が「御神水」として残っている。

写真帖

  • 鳥居

    鳥居

  • 御神水

    御神水

  • 弁天社

    弁天社

  • 神門

    神門

  • 手水舎

    手水舎

  • 神楽殿

    神楽殿

  • 愛宕社

    愛宕社

  • 藤木稲荷社

    藤木稲荷社

  • 井手の沢碑

    井手の沢碑

  • 拝殿

    拝殿

  • 社号額

    社号額

  • 本殿

    本殿

旧観

  • 御神水(平成21年)

    御神水(平成21年)

  • 拝殿(平成21年)

    旧拝殿(平成21年)

メモ

平成17年に参拝した時は、御朱印はないとのことだった。しかし、平成21年の春、あるサイトで菅原神社の御朱印を見つけ、御朱印ができたらしいことを知った。
参拝当日、朝、念のために電話を入れたところ、午後は夏越の大祓ということで、午前中に来てもらえれば対応できるとのこと。慌てて家を飛び出したのだが、町田の駅を出てまもなく、朝からどんよりと曇っていた空からぽつぽつと雨が降り始めた。神社でお参りをしているうちに結構な降りになり、社殿の写真を撮った時は雨の筋が写るほどだった。

平成29年秋、Twitterでオリジナル御朱印帳ができたとことを知り、三度目の参拝。境内が整備され、拝殿も新築されて、ずいぶん雰囲気が変わっていた。天気も前回と打って変わって爽やかな秋晴れで、清々しい気持ちで参拝。御朱印帳を拝受したが、御朱印も以前とは変わっていた。
ただ、井手の沢(御神水)には水がなくなっており、窪地が残るだけだった。地下水の水位が下がったのであろうか。

菅原神社の概要

名称 菅原神社
旧称 天神社
御祭神 菅原道真公〔すがわらのみちざねこう〕
鎮座地 東京都町田市本町田802番地
創建年代 永享年間(1429~41)/寛永7年(1630)
社格等 旧村社
例祭 8月25日
神事・行事 1月1日/歳旦祭
1月14日/お焚上げ(どんど焼き)
2月3日/節分祭
5月中旬/愛宕祭
6月下旬/夏越大祓
7月7日頃/七夕祭
7月15日/山王祭
12月31日/年越大祓

交通アクセス

□JR横浜線・小田急線「町田駅」より徒歩20分、またはバス
■神奈中バス藤の台団地・養運寺・鶴川駅・野津田車庫行き「菅原神社前」下車すぐ

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