名称 | 補陀落山 観音院 長尾寺 |
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御本尊 | 聖観世音菩薩 |
所在地 | 香川県さぬき市長尾西 [Mapion|googlemap] |
公式サイト | http://nagaoji.com/ |
【本尊真言】
おん あろりきゃ そわか
【御詠歌】
あしびきの山鳥の尾の長尾寺 秋の夜すがら御名を唱えよ
【略縁起】
寺伝によれば、天平11年(739)行基菩薩がこの地を訪れた時、霊夢を見て楊柳に聖観音の像を刻み、一堂を建立して安置したという。弘法大師が唐に渡る前に訪れ、年頭七夜五穀豊穣と国家安穏の護摩を修し、人々に護摩符を与えた。これに因んで、今も正月七日に大会陽が行われる。天和3年(1683)高松藩主・松平頼常により真言宗から天台宗に改められる。
長尾寺の納経(御朱印)
(1)平成元年拝受の納経。揮毫は聖観音の種字「サ」に「聖観音」。中央の宝印は蓮華座上の円に種字「サ」。右上の印は「四国八十七番」、左下は「長寺」と思われる。
(2)平成19年に拝受した納経。揮毫・朱印ともに平成元年のものと同じ。
江戸時代の納経
(1)天保11年(1840)の納経。版木押しで「奉納経」「本尊聖観世音大士」「讃州補陀落山」「長尾寺」「役者」。中央上の宝印は蓮華座上の円に聖観音の種字「サ」。右上の印は「第八十七番」、左下は「長寺」と思われる。
(2)天保12年(1841)の納経。版木は新調されたようで「奉納経」「金堂本尊聖観世音」「奥院智証大師」「讃陽 補陀落山」「長尾寺」。朱印は天保11年のものと同じ。
明治時代の納経
(1)明治38年(1905)の納経。版木押しで「奉納経」「本尊聖観世音大悲殿」「讃陽」「補陀落山」「長尾寺」。朱印は現在のものとほぼ同じで、中央の宝印は蓮華座上の円に聖観音の種字「サ」。右上の印は「四国八十七番」、左下は「長寺」。
長尾寺について
山号 | 補陀落山(ふだらくさん) |
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寺号 | 長尾寺(ながおじ) |
院号 | 観音院(かんおんいん) |
旧称 | 長尾観音寺 |
御本尊 | 聖観世音菩薩 |
所在地 | 香川県さぬき市長尾西653番地 |
創建年代 | 天平11年(739) |
開山 | 行基菩薩 |
宗派等 | 天台宗 別格本山 |
文化財 | 〈重文〉経幢 |
覚え書き
天平11年(739)行基菩薩がこの地を巡錫したとき、霊夢を感得して楊柳に聖観音を刻み、堂宇を建立して安置したという。一説には聖徳太子の開創とも伝えられる。
渡唐を前にした弘法大師が滞在し、年頭七夜の護摩秘法を修し国土安穏と五穀豊穣を祈願した。この時、集まった善男善女に護摩府を与えたと伝えられ、これに因んで毎年正月7日の大会陽に「福奪い」が行われる。三本の宝木が投下され、それを裸の若者が奪い合う勇壮な行事である。
唐より帰朝した大師は再び当寺を訪れ、大日経を一石に一字書写して万霊の供養塔を建立し、伽藍を整えた。
その後、兵火により伽藍は焼失し、慶長年間(1596~1615)讃岐の国主となった生駒一正によって再建される。この頃より長尾観音寺と称するようになった。
天和元年(1681)高松藩主・松平頼常が現在の堂宇を建立、同3年(1683)真言宗より天台宗に改めさせた。元禄6年(1693)頼常より寺領5石を寄進され、寺号を観音院長尾寺と改めた。
山門の仁王像は大阪で造られ、船で志度浦に運ばれた後、自らの足で長尾寺まで歩いたという伝説がある。また、門前にある二基の経幡は弘安6年(1283)と同9年(1286)の銘があり、元寇の犠牲者を供養するために建立されたものと考えられている(重文)。
また、源義経と別れた静御前はこの寺で得度したと伝えられ、剃髪したときに髪を納めたという剃髪塚が境内に残る。
1月7日の大会陽では「福奪い」のほか、「大鏡力餅」という行事も行われる。1月2日の三味線餅つきでつかれた大鏡餅を載せた大三宝、合わせて四十貫(約150キロ)を抱え、歩いた距離を競うもので、全国から力自慢が集まる。
長尾寺の奥の院は、紫雲山玉泉寺である。