中井御霊神社は、景行天皇40年(110)日本武尊の東征に従った常陸国鹿島神宮の神裔の一部がこのあたりを統治するようになり、祖神・武甕槌命を祀ったことを起源とする。源義家の奥州征伐の後、当地に源氏の一族が居住するようになり、故郷・大和国宇陀郡の御霊神社を勧請・合祀した。1月13日に行われる備射祭が新宿区の無形民俗文化財に指定されている。
正式名称 | 御霊神社〔ごりょうじんじゃ〕 |
---|---|
通称 | 中井御霊神社〔なかい ごりょうじんじゃ〕 |
御祭神 | 仲哀天皇 応神天皇 神功皇后 仁徳天皇 武甕槌神 |
社格等 | 旧無格社 |
鎮座地 | 東京都新宿区中井2-29-16 [Mapion|googlemap] |
御朱印
平成17年に拝受した御朱印。中央の朱印は「御霊神社」、右上は「武蔵國落合 五社之宮 参拝記念」。
御由緒
中井御霊神社は、下落合村字中井の鎮守。古くは五霊社・五神之宮等と称したようである。安産子育ての神として信仰を集め、安産の腹帯を授与していた。また、神前の紅白の帛布を授かり、紅布なら女子、白布なら男子という伝承があったという。
創建年代は不詳。社伝によれば、景行天皇40年(110)日本武尊の東征に従った鹿島神宮の神孫達の一部がこのあたりを統治するようになり、祖神であり武神でもある武甕槌命を祀ったのが起源であるという。
八幡太郎義家の奥州征伐の後、当地には源氏の一族が居住するようになり、故郷・大和国宇陀郡の源氏の氏神である御霊社を勧請・合祀した。
1月13日に行われているお備射祭は新宿区指定の無形民俗文化財。弓で的を射て、その年の豊凶を占い、悪霊を払って豊作を祈る神事で、区内では当社と葛谷御霊神社に伝わっている。この神事で使われる分木〔ぶんぎ〕と江戸時代の備射祭絵馬も区の有形民俗文化財に指定されている。
分木は的に三重の円を描くときに用いるコンパスで、2本残されている。その1本に「永禄癸亥」の銘があることから、この神事が永禄6年(1563)には既に行われていたことがわかる。
補足
御霊神社という社号は5柱の神を祀る「五霊」が「御霊」になったもので、御霊信仰によるものではなさそうである。系統的には八幡宮としてよいようで、平成22年に参拝したときには全国八幡宮連合の「応神天皇壱千七百年式年祭」の幟が立っていた。
八幡神奉斎は、由緒書によれば大和源氏の一族が大和国宇陀郡の御霊社を勧請・合祀したときということになるのだが、この御霊社についてはよくわからない。『平成「祭」データ』には、宇陀郡に御霊社はなく、隣接する五條市(旧宇智郡)にはあるが、御祭神はいずれも井上内親王である。
もともと五霊であったことを考えれば、宇陀郡内の八幡系の神社ということになるのであろう。ただ、八幡系でありながら、八幡太郎義家や源頼朝ではなく、比較的地味な存在である大和源氏の故郷の氏神に由来するというのは、案外歴史的事実を伝えているのではないかという気もする。
なお、現在、当社と葛谷御霊神社は異なる由緒を伝えているが、当社に伝わる分木には元和6年(1620)古い分木を葛ヶ谷村に分け与えたことが記されている。一方、『東京府豊玉郡誌』には、徳川家康が江戸に入り、葛谷村の地を割いて旗本に給付した際、葛谷の御霊神社を中井に分祀して産土神としたという所伝を載せている。
写真帖
メモ
中井御霊神社は妙正寺川沿いの高台の上に鎮座しており、西武新宿線沿いの通りからかなりの急坂を登っていくことになる。それほど広くはないが手入れの行き届いた境内に落ち着いた木造権現造りの社殿が建つ。日当たりもよく、気持ちのよい神社である。
中井御霊神社の概要
名称 | 御霊神社 |
---|---|
通称 | 中井御霊神社 |
旧称 | 五霊社 五神之宮 |
御祭神 | 仲哀天皇〔ちゅうあいてんのう〕 応神天皇〔おうじんてんのう〕 神功皇后〔じんぐうこうごう〕 仁徳天皇〔にんとくてんのう〕 武甕槌神〔たけみかづちのかみ〕 |
鎮座地 | 東京都新宿区中井二丁目29番16号 |
創建年代 | 不詳 |
社格等 | 旧無格社 |
例祭 | 9月最終土・日曜日 |
神事・行事 | 1月1日/新年歳旦祭 1月13日/備射祭 2月3日/追儺豆まき式 2月下午の日/初午祭 5月5日/梵天祭 5月下巳の日/厳島社祭 6月15日/三峰社・天王社大祭 6月30日/大祓祭 11月23日後の日曜日/新穀感謝祭 12月31日/大祓祭 |
交通アクセス
□西武新宿線・都営大江戸線「中井駅」より徒歩約7分