市谷亀岡八幡宮は、文明11年(1479)太田道灌が江戸城西方の守護として鶴岡八幡宮の御分霊を勧請し、鶴岡に対して亀岡と称したのが創祀とされる。当初の鎮座地は市谷御門内であったが、寛永年間(1624~44)外濠の完成に伴って茶ノ木稲荷神社境内の現社地に遷座した。江戸時代は江戸の八所八幡の一に数えられ、広く信仰を集めたという。
正式名称 | 市谷亀岡八幡宮〔いちがや かめがおかはちまんぐう〕 |
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御祭神 | 誉田別命 気長足姫尊 與登比売命 |
社格等 | 旧郷社 |
鎮座地 | 東京都新宿区市谷八幡町15 [Mapion|googlemap] |
最寄り駅 | 市ヶ谷(JR・有楽町線・南北線・都営新宿線) |
公式サイト | http://www.ichigayahachiman.or.jp/ |
御朱印
(1)平成17年に拝受した御朱印。中央の朱印は「市谷亀岡八幡宮」、右上は鳥居に「市谷亀岡八幡」。揮毫は中央に「市谷亀岡八幡宮」、右に「城西之鎮護」。
(2)平成22年拝受の御朱印。中央と右上の印は平成17年のものと同じ。左下の院は「市谷亀岡八幡宮之印」。揮毫は中央に「城西之鎮護」、右に「市谷亀岡八幡宮」。揮毫の配置は書き手によって変わるとのこと。
摂末社の御朱印
平成22年拝受、摂社・茶ノ木稲荷神社の御朱印。
御由緒
市谷亀岡八幡宮は、文明11年(1479)太田道潅が江戸城西方の守護として、鎌倉の鶴岡八幡宮より御分霊を市谷御門内に勧請し、鶴岡に対して亀岡と称したのが始まりという。
天正年間の戦乱により荒廃し、慶長年間(1596~1615)に別当の源空少僧都によって再建されたものの往時の壮観にははるかに及ばなかった。しかし徳川家康が江戸に入ったとき当社の由緒を尋ね、3代将軍・家光の時に朱印地を賜ったという。
寛永年間(1624~44)江戸城外濠の完成に伴って市谷の稲荷山にあった茶ノ木稲荷神社の境内に遷座した(茶ノ木稲荷は地主神として、摂社となっている)。別当は古義真言宗の稲嶺山東圓寺であった(御府内八十八ヶ所37番、現・廃寺)。
江戸時代には江戸八所八幡の一に数えられ、特に五代将軍綱吉の母・桂昌院の信仰を得て社頭は繁栄した。元禄15年(1702)には、当社の由緒を聞いた桂昌院が神輿の数が足りないことを残念に思い、黄金を寄進して3基の神輿が揃えられた。当社の祭礼は山の手地区を代表する賑わいであったという。
享保10年(1725)青山火事で類焼、同12年(1727)から再建に取りかかった。
明治の神仏分離により別当の東円寺は廃寺となり、境内の仏堂も取り壊された。この時、江戸八所の鐘の一つであった鐘楼も撤去されてしまった。茶屋や芝居小屋も取り壊され、跡地には樹木が植えられたため、静寂な佇まいにはなったものの、江戸時代の賑わいは失われたという。明治5年(1872)郷社に列格。
昭和20年(1945)米軍の空襲により社殿等灰燼に帰した。この時、高さ15mという神木の楠も焼け落ちてしまった。現在の社殿は同37年(1962)に再建されたものである。
写真帖
メモ
市ヶ谷駅からほど近く、靖国通りから少し入ったところに市谷亀岡八幡宮への石段があり、その左側に茶ノ木稲荷が見える。この石段を男坂と呼び、茶ノ木稲荷の左側の坂を女坂と呼ぶそうである。
現在は神社本庁に所属しない単立神社で、意欲的に各種の活動を行っているようである。
市谷亀岡八幡宮の概要
名称 | 市谷亀岡八幡宮 |
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旧称・通称 | 市谷八幡宮 八幡神社 市谷八幡神社 亀岡八幡神社 |
御祭神 | 誉田別命〔ほんだわけのみこと〕 気長足姫尊〔おきながたらしひめのみこと〕 與登比売命〔よとひめのかみ〕 |
鎮座地 | 東京都新宿区市谷八幡町15番地 |
創建年代 | 文明11年(1479) |
社格等 | 旧郷社 (単立神社) |
例祭 | 8月13日~15日 |
神事・行事 | 1月1日/歳旦祭 1月3日/元始祭 2月3日/節分追儺式 2月初午/稲荷二社初午祭 2月17日/祈年祭 3月3日/雛祭 4月第1日曜日/出世稲荷神社祭礼 5月5日/端午節句 5月11日/五月の中祭(茶ノ木稲荷) 6月第1日曜日/金刀比羅宮祭礼 6月30日/夏越大祓 9月8日/仲秋 9月11日/長月の小祭(茶ノ木稲荷) 10月または11月/放生会四魂の祭り 11月23日/勤労感謝祭 12月31日/大祓 |
交通アクセス
□JR・有楽町線・都営新宿線「市ヶ谷駅」より徒歩3分
□南北線「市ヶ谷駅」より徒歩すぐ