式内社・薭田神社の論社。薭は蒲の古字で、『三代実録』にある「蒲田神社」も当社のことであるという。社伝によれば、和銅2年(709)行基菩薩が自ら刻んだ天照・八幡・春日の御神像を奉安したと伝えられる。江戸時代は八幡社と呼ばれていたが、別当・栄林寺の僧が神祇管領・吉田家に判断を要請し、薭田神社の号を許された。
正式名称 | 薭田神社〔ひえだじんじゃ〕 |
---|---|
御祭神 | 誉田別命 天照大神 武内宿禰命 荒木田襲津彦命 春日大神 |
社格等 | 式内論社 旧郷社 |
鎮座地 | 東京都大田区蒲田3-2-10 [Mapion|googlemap] |
公式サイト | http://hieda.kamatahachiman.org/ |
御朱印
(1)平成17年拝受の御朱印。中央の朱印は「薭田神社」。
(2)平成28年拝受の御朱印。朱印・揮毫ともに平成17年のものと同じ。
御由緒
延喜式所載の薭田神社に比定される。北蒲田村の鎮守で、別当は隣接する日蓮宗の長光山栄林寺であった。
薭は蒲の古字とされ、古くは蒲田神社と称したと伝えられる。『三代実録』には貞観6年(864)武蔵国従五位下蒲田神社を官社に列すとある。蒲に薭の字が当てられ、後に「ひえだ」と読むようになったものと推測されている。
蒲田草創からの古社で、境内からは1500年ほど前のものと推定される高杯などの土器が見つかっている(蒲田郷の名は『和名抄』にも見える)。垂仁天皇の御代に天神地祇を祀った霊地ともいわれる。
和銅2年(709)行基菩薩が当地に留錫し、天照大神・八幡大神・春日大神の御神像を刻んで奉斎したと伝えられる。弘安5年(1282)日蓮上人が池上宗仲の邸に入ったとき、村人の請いにより三体の神像を開眼したという伝承もある。
六郷の領主・行方弾正の崇敬を受けて社頭繁栄したが、天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原征伐に際し、行方弾正直清が北条方についたことから没落。神社も神器・宝物・記録を失った。
江戸時代には八幡社と称していた。『新編武蔵風土記稿』によれば、当時、式内・薭田神社は不明となっており、当社の他、三田町の八幡社(御田八幡神社)、八幡塚村の八幡社(六郷神社)、鵜ノ木村の名主・天明家の邸内社(鵜ノ木八幡神社)などを当てる説があった。
当社の別当・栄林寺の僧は、当社の前の地を古くから神戸と呼び、神戸橋という橋があったことなどから、当社が後世に建てられた八幡宮ではなく、それ以前からの神社だと推測。神祇管領吉田家の判断を請い、薭田神社の号を許されたという。
なお、蒲田村から新宿村が分村した際、行基作とされる三体の神像のうち春日の神像が遷されて新宿村の鎮守となったとされる。これが現在の蒲田八幡神社だが、当時は新宿八幡と呼ばれており、蒲田八幡は当社の通称であったようだ。
明治5年(1872)郷社に列格。昭和20年(1945)米軍の無差別爆撃により社殿全焼し、同29年(1954)復興。さらに平成12年(2000)社殿を新築した。
写真帖
メモ
明るくさっぱりとした境内。蒲田八幡神社の兼務社で、御朱印はそちらで拝受できる。初めて参拝したのは年越しの大祓の日で、神職の方がいらっしゃったが、祭典のある日でも、こちらで御朱印はしていないようだ。境内には梅の木が多く、早春には紅白の花を咲かせている。
薭田神社の概要
名称 | 薭田神社 |
---|---|
旧称 | 八幡社 蒲田神社 蒲田八幡 |
御祭神 | 誉田別命〔ほんだわけのみこと〕 天照大神〔あまてらすおおみかみ〕 武内宿禰命〔たけしうちのすくねのみこと〕 荒木田襲津彦命〔あらきだそつひこのみこと〕 春日大神〔かすがのおおみかみ〕 |
鎮座地 | 東京都大田区蒲田三丁目2番10号 |
創建年代 | 和銅2年(709) |
社格等 | 式内社(論) 旧郷社 |
延喜式 | 武蔵国荏原郡 薭田神社 |
例祭 | 9月15日前後の土・日曜日 |
神事・行事 | 1月1日/歳旦祭 2月17日/祈年祭・境内末社例祭 6月25日/夏越大祓 7月中旬土・日曜日/盆踊り 11月23日/新嘗祭 12月26日/年越大祓 |
交通アクセス
□京浜急行線「京急蒲田駅」より徒歩約7分
□JR京浜東北線・東急多摩川線・池上線「蒲田駅」より徒歩約8分