式内社と国史見在社

みか神社社号標

神社の御朱印をいただくようになると、「式内社〔しきないしゃ〕」「式内」という言葉を見かけることが多くなるのではないだろうか。御朱印に「延喜式内」あるいは「延喜式内名神大社」といった文字や印を入れる神社もある。

式内社とは、平安時代に編纂された法令集である『延喜式〔えんぎしき〕』巻九・巻十の「神名式〔じんみょうしき〕」(一般に「延喜式神名帳〔えんぎしきじんみょうちょう〕」と呼ばれる)に登載されている神社のことである。延喜式内社、略して式内・式社ともいう。式の内の社、延喜式の内の神社の意味である。

式内社の中には、中世以降に衰退・廃絶したり、改号・分祀したりして所在がわからなくなった神社も多い。しかし、唯一神道の興隆とともに「延喜式神名帳」が重視されるようになり、収録された神社は式内社として尊重されるようになった。

江戸時代になると式内社の調査・研究が進められ、不明となっていた神社の比定や再興が行われた。現在、式内社とされている神社でも、江戸時代以降、式内社に比定された神社が少なくない。

一方、延喜式神名帳に登載されていない神社を式外社〔しきげしゃ〕という。その中でも、『日本書紀』から『日本三代実録』までの六国史〔りっこくし〕に神名・社名の見える神社を国史見在社〔こくしけんざいしゃ〕(国史現在社とも)といい、式内社とともに由緒ある神社として尊重されている。

スポンサーリンク
サイト内検索
広告レクタングル(大)




延喜式神名帳について

延喜式神名帳

『延喜式』神名式/江戸時代の刊本(国会図書館デジタルコレクション)

延喜式とは

延喜式とは平安時代の法令集である。延喜5年(905)醍醐天皇の勅命によって編纂が開始され、延長5年(927)完成奏上された。

大化の改新の後、日本は唐の律令制を取り入れて国造りを行った。この律令制の基本となる法典は四種あり、「律・令・格・式〔りつ・りょう・きゃく・しき〕」と総称する。

「律」は現在の刑法、「令」は行政法その他に相当する。「格」は律令の修正法で、「式」はそれら律令格の施行細目である。大宝年間に編纂された律令を「大宝律令」と呼ぶように、延喜年間に編纂された式なので「延喜式」という。

延喜式はほぼ完全な姿で伝わっており、しかも規定の内容が微細な事柄にまで及んでいるため、古代史の研究において大変重視されている。全50巻で、巻一から巻十が神祇官関係の式(神祇式)、巻十一から巻四十が太政官八省関係の式、巻四十一から巻四十九がそれ以外の諸司の式、巻五十が雑式となっている。

延喜式神名帳

 神祇官に関係する式(神祇式)は、巻一・巻二が四時祭(四時は四季のことで、一年間の恒例祭祀についての規定)、巻三が臨時祭、巻四が伊勢太神宮、巻五が斎宮寮、巻六が齋院司、巻七が践祚・大嘗祭、巻八が祝詞、巻九・巻十が神名となっている。

この巻九・巻十の神名式がいわゆる「延喜式神名帳」である。当時の官社(国家的待遇を受ける神社)のリストであり、「官社帳」ともいう。

官社に列格した神社は神名帳に記載され、毎年2月に行われる祈年祭〔きねんさい〕のときに幣帛〔へいはく〕(供え物)が奉られた。さらに月次祭〔つきなみさい〕・相嘗祭〔あいなめさい〕・新嘗祭〔にいなめさい〕・名神祭〔みょうじんさい〕などの幣帛に預かる神社もあった。

神名帳には国郡別に社号・祭神の座数、祈年祭以外に幣帛を受ける祭祀などが列記されているが、ごく一部を除いて祭神の名前は記されていない。登載されている神社の数(社数)は2,861所、祭神の数は3,132座で、これらを式内社と呼ぶ。

式内社の社格

延喜式神名帳

延喜式神名帳(部分)(国会図書館デジタルコレクション)

大社・小社と官幣社・国幣社

式内社は、重要度に応じて大社と小社に区分され、また神祇官から幣帛(供え物)を受ける官幣社〔かんぺいしゃ〕と、国司から幣帛を受ける国幣社〔こくへいしゃ〕に分けられていた。官幣とは神祇官が奉る幣帛、国幣とは国司が奉る幣帛の意味である。

本来、祈年祭の幣帛は各神社の神主や祝部が都の神祇官に出向いて受け取っていた。しかし、遠国の神社にとっては負担が大きいため、延暦17年(798)以降、従来通り神祇官に出向いて幣帛を受け取る官幣社と、神祇官の代わりに国司から受け取る国幣社に分けられることになった。

一部の例外を除き、畿内(山城・大和・摂津・河内・和泉)の神社が官幣社、畿内以外の神社が国幣社とされたようである。

■官幣大社 304座(社数198所)

官幣大社は大半が畿内にあるが、畿内以外であっても重要な神社として官幣社とされたものがあった(伊勢14座、伊豆1座、武蔵1座、安房1座、下総1座、常陸1座、近江5座、若狭1座、丹後1座、播磨3座、安芸1座、紀伊8座、阿波2座)。

官幣大社は、2月の祈年祭の他、11月に行われる新嘗祭と6月・12月に行われる月次祭においても幣帛を受けた。官幣大社が受ける幣帛は案(机)の上に置かれていたので「案上〔あんじょう〕の官幣」という。さらに、そのうちの71座(41所)は新嘗祭に先立って行われる相嘗祭でも幣帛を受けた。神名帳には「新嘗・相嘗・月次」などと記載されている。

■官幣小社 433座(社数375所)

官幣小社はすべて畿内にあった。祈年祭の時、案(机)の下に置かれた幣帛(案下〔あんげ〕の官幣)を受けた。

■国幣大社 188座(社数155所)
■国幣小社 2,207座(社数2,133所)

国幣大社・国幣小社はすべて畿内以外にあった。大社と小社では、祈年祭の幣帛の品目と数量が違っていた。

名神大社

官社(式内社)のうち、名神祭に預かった大社を「名神大社〔みょうじんたいしゃ〕」と呼び、社格の一つとして尊重されている。

名神は古くから霊験著しいとされる神に対する称号で、名神祭は国家的事変やその発生が予想される時に行われた臨時の国家祭祀(臨時祭)である。名神大社は延喜式神名帳に「名神大」と記載され、官幣・国幣合わせて310座(225所)ある。

ただし、同じ延喜式の臨時祭式名神祭条に登載されているのは285座(203所)で、神名帳のほうが25座(22所)多くなっている。これについては、両者の管轄が違ったためとか、写本作成時の誤写であろうとか、新たに名神大社に列した神社が名神祭条には記載されていないのだろうといった説がある。

論社

栄枯盛衰は世の習いというように、その後の歴史の中で衰退したり廃絶したりした式内社は少なくない。また、社号や御祭神が変わったり、遷座や分祀、他の神社に合祀されたりして、所在がわからなくなった神社も多い。

江戸時代になると、国学者などを中心に延喜式神名帳の研究が行われ、現存する神社への比定や再興が行われた。複数の神社が式内社として名乗りを上げ、激しい論争になったケースもある。

式内社の候補となる神社が複数あり、いずれとも決定しがたい場合、それらの神社を論社と呼ぶ。論社の中には、栃木県の宇都宮二荒山神社と日光二荒山神社、福島県の馬場都々古別神社と八槻都々古別神社のように、ともに明治社格制度で官国幣社に列格した例もある。

因みに、当サイトを含め、御朱印を紹介するサイトやブログ界隈では、式内論社の範囲について、神社の自称も含めて最大限幅広く解釈することが多いように思われる。

国史見在社

三代実録

『三代実録』神階奉授の記事(国会図書館デジタルコレクション)

式外社

延喜式神名帳に記載されていない神社を式外の社、式外社と呼ぶ。

資料によって、延喜式成立当時に存在していた神社とするものと、延喜式成立以降に創建された神社を含むとするものがあるのだが、一般的には前者の意味で使う例が多いように思われる。

代表的な式外社には、山城国の石清水八幡宮八坂神社(祇園社)、大原野神社吉田神社、紀伊国の熊野那智大社、筑前国の香椎宮、陸奥国の鹽竈神社などがある。

これらのうち、例えば大原野神社は延喜式の大原野神四座祭条に、塩竃神社は主税式に名前が見えるが、神名式(神名帳)に登載されていないため式外社とされる。

国史見在社

式外社のうち、六国史に名前が見える神社を国史見在社、あるいは国史現在社という。その数は391座で、61ヶ国に及ぶ。

※六国史=奈良・平安時代に勅命によって編纂された六つの歴史書である『日本書紀』『続日本紀』『日本後紀』『続日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代実録』の総称。

記事の内容は授位(神階の奉授)、奉幣、祭祀、祈請、鎮祭などだが、特に授位の記録が多い。

当時から朝廷の尊崇を受けた神社であり、式内社とともに由緒ある神社として重んじられ、一種の社格として扱われることが多い。しかし、国名と神名だけで郡名が記載されていないため、式内社以上に特定が難しく、論社が多い。


※掲載の情報は最新のものとは限りません。ご自身で確認をお願いします。

スポンサーリンク
サイト内検索
広告レクタングル(大)




サイト内検索
広告レクタングル(大)




シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする