日吉八幡神社は、平安時代後期に近江の日枝山王と石清水八幡を勧請したと伝えられる。久保田(秋田)藩主・佐竹氏は当社を篤く崇敬し、元和元年(1615)飯島から八橋狐森に、さらに寛文2年(1662)八橋の現社地に遷し、久保田城下の町人町である外町の総鎮守とした。
正式名称 | 日吉八幡神社〔ひえはちまんじんじゃ〕 |
---|---|
御祭神 | 大山咋神 誉田別命 |
社格等 | 旧県社 |
鎮座地 | 秋田県秋田市八橋本町1-4-1 [Mapion|googlemap] |
御朱印
(1)平成20年拝受の御朱印。朱印は「秋田八橋 日吉八幡神社印」。
御由緒
日吉八幡神社は久保田(秋田)城下の町人町である外町の総鎮守であり、「八橋の山王さん」として町人たちの篤い崇敬を受けてきた。
創建に関しては資料によって異同があるので、それぞれの説を掲載することにする。
『平成「祭」データ』や秋田県神社庁の神社紹介によれば、平安時代の後期、前九年の役で破れた安倍宗任が比叡山で修験者となり、晩年、外旭川(秋田市下新城笹岡)に近江の日枝山王(日吉大社)と石清水八幡宮を勧請して日吉山延命寺無量寿院を建立したことが創祀という。その後、元亨2年(1322)に新城の館主がここに日吉山八幡宮を造営した。
応永2年(1395)大檀那の沙弥安宗により新城五十丁(現在の上新城中学校の地)に移された。さらに天正17年(1589)安東(秋田)実季は土崎湊の安東道季との湊合戦に際して戦勝を祈願。勝利の後、守護神として飯島(秋田市飯島、土崎港の北)に遷し、神領209石を寄進した。
一方、御朱印拝受の時にいただいた由緒書では、元亨2年に外旭川に勧請したのが始まりとしている。
『明治神社誌料』は、創建年代は詳らかでないが、元亨2年に社殿を修造したとする。ただし沿革史では勧請年月が異なっており、「元亨2年に秋田安信が飯島村に山王を勧請して日吉山延命寺、あるいは十禅寺と称した」とあるという。
慶長7年(1602)秋田六郡の領主となった佐竹氏も篤く当社を崇敬した。元和元年(1615)八橋狐森に遷して社領40石を寄進、城下の町人町である外町の総鎮守とした(因みに、侍町である内町の総鎮守は八幡秋田神社)。
寛永2年(1625)社殿が造営されるが、寛永19年(1642)久保田大洪水(白髭水)のために社殿が大破。同年中に八橋の現在地を社地と定め、寛文2年(1662)社殿を再建して遷座した。
明和7年(1770)久保田の大火で社殿が焼失。現在の拝殿は安永7年(1778)、本殿は寛政9年(1797)に再建されたものである。
明治12年(1879)県社に列格。明治30年(1897)山王・八幡の両社を合祀して「日吉八幡神社」と改称した。
境内に県指定の有形文化財が4棟12基あり、県内最大を誇ることから「歴史の宝庫」と称されるという。また、東参道から進めば鳥居と狛犬が並ぶ神式の配置、北参道から入れば随神門(旧寿量院の山門を移築したもの)や三重塔といった仏式の配置になっており、興味深い。
歴史的経緯から例大祭にも特徴がある。
氏子である外町から八橋の日吉八幡までは参拝が不便であるため、氏子が神社に参拝するのではなく、秋季例大祭前日の宵宮に、神社の大御幣が外町の氏子を巡行する「御差鉾行列」が行われる。
また、9月15日に行われる神輿の渡御行列では、飯島の人々が2基の神輿を担ぐ。これは、飯島に鎮座していた文禄3年(1594)に京より神輿を購入し、初めて飯島・穀丁間の渡御行列が行われて以来の伝統である。かつて、神輿は外町の氏子が担ぐべきであるという議が起こり、外町の若衆が担ごうとしたが、神輿はまったく動かなかった。そのため、神様が飯島衆にだけ与えた役目と言い伝えられ、現在に至るまでその伝統が守られているとのことである。
写真帖
メモ
秋田市八橋運動公園のすぐ北側に鎮座する。秋田県庁や秋田市役所からもほど近い場所なのだが、市街地にあることを感じさせない緑豊かな境内である。
日吉八幡神社の概要
名称 | 日吉八幡神社 |
---|---|
旧称 | 八橋山王社 |
御祭神 | 大山咋神〔おおやまくいのかみ〕 誉田別命〔ほんだわけのみこと〕 |
鎮座地 | 秋田県秋田市八橋本町一丁目4番1号 |
創建年代 | 平安時代後期 |
社格等 | 旧県社 |
例祭 | 春季例祭:旧暦4月中の申の日 秋季例大祭:9月15日 ※9月14日/御差鉾神事 |
神事・行事 | 1月1日/歳旦祭 2月15日/どんと祭 |
文化財 | 〈県有形文化財〉日吉八幡神社(本殿・拝殿・舞殿・随神門・三重塔・青銅鳥居など4棟12基) |
交通アクセス
□JR奥羽本線・秋田新幹線「秋田駅」よりバス
■通町・寺内経由将軍野線「球技場前」下車徒歩約3分
■泉八橋環状線(八橋回り)「八橋市民広場・裁判所前」下車徒歩約5分