名称 | 竹林山 地蔵院 神峯寺 |
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御本尊 | 十一面観世音菩薩 |
所在地 | 高知県安芸郡安田町唐浜 [Mapion|googlemap] |
【本尊真言】
おん まきゃ きゃろにきゃ そわか
【御詠歌】
みほとけのめぐみの心神峯 山も誓いも高き水音
【略縁起】
寺伝によれば、神功皇后が三韓征伐に際し、戦勝を祈願して天地の神々を祀ったことを起源とする神仏習合の霊場である。聖武天皇の御代、行基菩薩が十一面観音を安置して本尊とし、大同4年(809)弘法大師が伽藍を建立したとされる。明治の神仏分離で廃寺となるが、明治20年(1887)元の僧坊跡に堂舎を建立して札所を再興した。
神峯寺の納経(御朱印)
(1)平成元年拝受の納経。揮毫は十一面観音の種字「キャ」に「十一面尊」。中央の宝印は火炎宝珠に「キャ」。右上の朱印は「四国二十七番」、左下は「神峯寺印」。
(2)平成19年拝受の納経。揮毫・朱印ともに平成元年のものと同じ。
江戸時代の納経
(1)天保11年(1840)の納経。揮毫は「奉納」「本尊十一面観世音」「土佐」「竹林山」「神峯」。中央の宝印は「佛法僧宝」の三宝印。右上の朱印は「四国二十七番」、左下は「竹林山 神峰寺」。
(2)天保12年(1841)の納経。書き置きのものを貼っている。揮毫は「奉納経」「本尊十一面観世音」「土佐」「竹林山」「神峯」。朱印は天保11年のものと同じ。山上の札所(観音堂)で拝受したものであろう。
(3)天保12年、上と同じ納経帳で、こちらは納経帳に記帳押印している。揮毫は上とほぼ同じ。朱印は中央と右上は同じだが、下の印のみ違う。判読しづらいが別当の常行寺か前札所の養心庵の印と思われる。山上の札所に登る前に拝受したのであろう。
明治時代の納経
(1)明治38年(1905)の納経。揮毫は「奉納経」「本尊十一面大士」「神峰」。中央の宝印は火炎宝珠に十一面観音の種字「キャ」。右上の朱印は「四国二十七番」、左下は「神峯寺印」。
神峯寺について
山号 | 竹林山(ちくりんざん) |
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寺号 | 神峯寺(こうのみねじ) |
院号 | 地蔵院(じぞういん) |
御本尊 | 十一面観世音菩薩 |
所在地 | 高知県安芸郡安田町唐浜2594番地 |
創建年代 | 天平2年(730) |
開山 | 行基菩薩 |
宗派等 | 真言宗豊山派 |
覚え書き
土佐の関所寺。神峯山の頂に近くにある境内までの道は、遍路ころがしと呼ばれる難所の一つで、特に最後のあたりの急坂は「真っ縦」と呼ばれる。徒歩での参拝が大変なのは勿論のこと、車で登ってもなかなか大変である。すぐ上にある神峯神社の本殿は神峯寺の旧本堂である。
神仏習合の霊場で、寺伝によれば神功皇后が三韓征伐に際し、戦勝を祈願して天地の神々を祀ったことにはじまるという。聖武天皇の御代、行基菩薩が来錫して十一面観音像を刻んで安置した。さらに大同4年(809)弘法大師が伽藍を建立し、「観音堂」と名付けたとされる。
近世の状況については資料による違いもあってよくわからないのだが、『日本歴史地名大系 高知県の地名』(平凡社)に基づいて整理すると、以下のようになる。
天正年間(1573~92)には、現在地の北方約4kmの地に神峯神社が鎮座し、山麓の唐浜村(現・安田町唐浜)に別当の神峯寺〔じんぽうじ〕があった。しかし慶長年間に神峯寺は退転し、住職が安田村(現・安田町安田)の少林山常行寺(現・廃寺)に移ったため、以後、常行寺が別当となった。
元和年間(1615~24)神峯神社が火災に遭い、社殿・旧記・宝物等すべて焼失した。その後、現在の神峯神社の地に社殿を再建した際、旧・神峯寺の十一面観音も安置されて観音堂と呼ばれるようになった。そのため、ここが27番札所として通用するようになったという。
しかし、険しい山上にあるため、神官・僧侶は常住せず、別当の常行寺が管理した。また、麓にある養心庵(現・廃寺)が前札所とされた。山上には上らず、養心庵で遙拝する遍路も多かったという。
納経は山上の観音堂(神峯寺)・養心庵・常行寺でそれぞれ対応していたと思われ、江戸時代の納経帳を見ると、寺の名を書くところは「神峯」で統一されているが、印は納経した寺のものが押されている。
明治の神仏分離により、寺号を廃して神峯神社となった。本尊などは26番札所の金剛頂寺に移され、27番札所も兼ねることになった。常行寺・養心庵も廃寺となっている。
明治20年(1887)神峯神社の下段、元の僧坊跡に堂舎を建立し、本尊を戻して札所を再興した。しかし寺格がなかったため、大正元年(1912)茨城県稲敷郡朝日村(現・阿見町小池)の地蔵院の寺基を移す形で認可を受けた。
現在、神峯神社の鳥居と神峯寺の山門が隣り合わせになっており、神仏習合時代の名残を留めている。