陸奥総社宮は陸奥国の総社。創建年代は不詳だが、各国で総社が設けられた頃、多賀城東門の近くに陸奥国内の諸神を勧請合祀したことを創祀とする。江戸時代には仙台藩主・伊達氏の崇敬を受けた。かつては奏社宮と称して鹽竈神社の奏請の宮とされ、鹽竈神社に参詣するときは、まず当社に参拝したという。
正式名称 | 陸奥総社宮〔むつ そうしゃのみや〕 |
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御祭神 | 八塩道老翁神 八塩道老女神 陸奥国式内社百座 |
社格等 | 陸奥国総社 式内論社 旧村社 |
鎮座地 | 宮城県多賀城市市川奏社1 [Mapion|googlemap] |
公式サイト | http://sousyanomiya.jp/ |
御朱印
平成19年拝受の御朱印。朱印は「陸奥総社宮印」。
御由緒
陸奥総社宮は、かつて陸奥国府が置かれた多賀城政庁東門跡の東に鎮座する。創建年代は不詳だが、陸奥国府に属する総社である。以前は奏社明神・奏社宮と称していたが、これは後世、「総社」を「奏社」と誤ったものであるため、近年、現在の社号に改めた。
諸国の国司は任国内の諸社を巡拝することが定められていたが、その手間を省くため、諸社の神々を国府近くに勧請し、まとめて祀るようになった。これが総社である。
陸奥国司が国府多賀城の東門近くに国内の神々を勧請奉斎したのが当社のはじまりとされ、延喜式神名帳に記載されている、陸奥国31郡の神々として100座(大社15座、小社85座)の神々を祀る。
なお、当社を式内社・多賀神社に比定する説もある。
鎌倉時代になると奥州留守職伊沢氏が祭祀料として3千刈の社地を寄進したが、天正の頃に廃絶したという。即位前の後村上天皇が陸奥太守として多賀城にあったとき、神護祈念を懸けたとも伝えられる。
仙台藩主となった伊達政宗によって再興され、別当として市川山神奏院(真言宗)が置かれた。歴代藩主も深く崇敬し、親拝・代参等もしばしばであったという。享保19年(1716)社殿を改築している。
当時、当社は奏社明神と称し、鹽竈神社の境外末社14社の一に数えられていた。奏請の宮とされ、鹽竈神社に参拝する際はまず当社に参拝し、奏可を得なければならないという伝承があった。別当神奏院も鹽竈神社の別当・法蓮寺の末寺であった。
明治の神仏分離により、別当・神奏院が復飾して神職となった。明治4年(1871)10月、村社に列格。明治41年(1908)近隣の貴船神社外7社を合祀した。
写真帖
見どころ
■安産枕
拝殿に置かれている枕を持ち帰り、神棚に供えて安産を祈願する。無事出産したときは、お礼参りとして新しい枕を添えて神社にお返しするという。
■多賀城跡と多賀城碑
多賀城とその周辺の遺跡が発掘され、国の特別史跡に指定されている。南門跡にある多賀城碑は、天平宝字6年(762)多賀城の修築を記念して建立されたものと考えられており、日本三古碑とされる。重要文化財。
メモ
鹽竈神社を参拝した後、歩いて陸奥総社宮に向かった。意外に近く、鹽竈神社が多賀城の精神的な支えであったという話を実感できた。
総社宮は多賀城跡と加瀬沼の間に鎮座する。緑豊かな鎮守の森の覆う神さびた境内である。境内入口には陸奥国式内社百座の神名額があり、総社の趣を示している。
因みに、この神名額では宮城郡の多賀神社を多賀城市高崎の多賀神社としているので、当社自身は式内社であることを主張していないものと思われる。
陸奥総社宮の概要
名称 | 陸奥総社宮 |
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旧称 | 奏社宮 奏社明神社 |
御祭神 | 八塩道老翁神〔やしおじおじのかみ〕 八塩道老女神〔やしおじおばのかみ〕 陸奥国式内社百座 |
鎮座地 | 宮城県多賀城市市川字奏社25番地 |
創建年代 | 不詳 |
社格等 | 陸奥国総社 式内社(論) 旧村社 |
延喜式 | 陸奥國宮城郡 多賀神社 |
例祭 | 4月第3日曜日 |
神事・行事 | 1月1日/元旦祭 1月14日/どんと祭 2月第1土・日曜日・第2土・日曜日/節分祭 |
交通アクセス
□JR東北本線「国府多賀城駅」より徒歩20分