明和6年(1769)に浄円坊という六十六部廻国聖が、河内国から畿内・山陽を経て四国に入り、四国24番最御崎寺まで巡拝した納経帳。全国を巡拝した数冊の納経帳のうちの1冊だと思われる。18世紀の納経帳は数が少なく、内容的にも後世の御朱印の形式が確立していく過渡的な情況がわかる貴重な資料である。
■明和6年(1769)六十六部の納経帳(1)河内・大和・山城
■明和6年(1769)六十六部の納経帳(2)山城・近江
■明和6年(1769)六十六部の納経帳(3)山城・丹波・摂津・淡路・播磨
■明和6年(1769)六十六部の納経帳(4)播磨・美作・備前・備中・讃岐
■明和6年(1769)六十六部の納経帳(5)阿波・土佐
※なお、各寺社の概要説明のうち、寺社名や所在地は当時のもの、御祭神・御本尊・宗派は現在のものとする。
明和6年の六十六部納経帳について
形式
御朱印は、六十六部の納経請取状が納経帳に変わり、内容と形式が次第に変化して(主として省略されて)現在のような形になった。
もともと証明書だったので、本来は「タイトル」「主文」「発給者」「宛名」「日付」から成っていた。
タイトルは「奉納大乗妙典 一部」(法華経一部を奉納したという意味)が本来の形だが、これが簡略化されて「奉納経」「奉納」となり、現在は「奉拝」(奉拝礼の略、「拝礼し奉る」の意味)が一般的である。
この納経帳では「奉納大乗妙典」とするところが多いが、「奉納経」「奉納」もかなり増えている。
ただし浄土宗の寺院はタイトル部分を省略している。浄土宗は浄土三部経を所依の経典とするため、法華経の奉納を意味する「奉納大乗妙典」を嫌ったものと思われる。19世紀の納経帳では「奉納経」「奉納三部妙典」などとしており、この時期の特徴的な形式といえるだろう。
また、吉田家配下の唯一神道になっていると思われる神社は「奉納中臣祓」としている。これはこの時期のみに見られるもので、19世紀の納経帳ではタイトル部分を省略することが多くなる。
これらはそれぞれの納経(御朱印)形式が定まっていく過程の過渡的な姿であるとともに、すでに納経(写経の奉納)の実態がなくなっていることを示していると思われる。実際に法華経の奉納を受けていれば、タイトルを省略したり、中臣祓を奉納したりしたことにはするはずがないからである。
主文は、納経請取状の段階ではタイトルの通り写経を受け取った旨、もしくは寺社の由緒や功徳を簡単に書いていたのだが、納経帳の段階になると大幅に省略されて寺社名や本尊の名前のみを書く、つまり現代の御朱印のような形になる。ただし、この頃は寺院なら「宝前」、神社なら「廣前」「神前」をつけるところが多い。
発給者は、納経請取状の段階では「役職名もしくは役職者の名前」「寺社名+役職名もしくは役職者の名前」だったが、現代の御朱印では寺院なら寺院名、神社は省略するのが一般的で、社務所印を押すところもある。
この納経帳では「寺院名」「寺院名+役職名」「役職名」で、江戸時代の納経帳で普通に見られる形である。あまり変化がない部分といえるだろう。
宛名は、納経請取状や最初期の納経帳では個人名を書いたが、「行者丈」を経て江戸時代後期には省略するのが普通になる。この納経帳では「行者丈」が多いが、わずかながら個人名を書くところもあり、省略しているところもある。
「行者丈」の「丈」は敬称で「尉」とも書いた。現代では歌舞伎役者などに使われているのを見ることができる。
行程
冒頭のページは江戸の寛永寺で、次は河内国一宮の枚岡神社。続いて葛井寺から書写山まで西国三十三所の巡礼路をたどりながら近隣の寺社を参拝している。そこから西国の巡礼路を外れて美作に入り、備前・備中を経由して讃岐に入っている。宇多津の道場寺(現・郷照寺)から四国八十八ヶ所を巡り始め、土佐の最初の札所である最御崎寺で終わっている。
これは六十六部によく見られる、伊勢から南下して熊野に入り、西国三十三所のルート沿いに書写山まで巡拝、美作から備前に入り、備中か備後から四国に渡って四国八十八ヶ所を巡拝、再び山陽地方に戻って西に向かい、九州を一周、山陰を経て成相寺から再び西国の巡礼路に戻り、谷汲山を参拝した後、北陸か信濃方面に向かうという巡拝ルートの一部分だと思われる。
つまり全国を巡拝した納経帳数冊(あるいは十数冊)の中の1冊であろう。
寛永寺と仁和寺は六十六部が本所とした寺院で、六十六部の納経帳は冒頭にどちらかの納経を置くことが多い。この納経帳で冒頭に寛永寺の納経を置いているということは、持ち主の浄円坊は東日本の人であった可能性が高いのではないかと思われる。ただし、これまで私が見た19世紀の納経帳では、寛永寺もしくは仁和寺の納経を冒頭にするのは1冊目だけのようなのだが、この納経帳は明らかに1冊目ではないので、使用した納経帳すべての冒頭に寛永寺の納経を受けていた可能性が高い。
寛永寺の参拝は明和4年(1767)4月。枚岡神社は明和6年(1769)4月27日で、ほぼ2年後である。江戸から東海道を下り、伊勢・熊野経由で河内まで来るのに2年かかるとは考えられないので、先に東日本を回ったと考えるのが妥当だろう。
最後の最御崎寺への参拝は同年の10月5日。四国で最初の道場寺が8月21日で1ヶ月半ほどかかっており、それほど早いペースではない。歩くスピードが遅いというより、ところどころで短期間の滞在をしているようだ。
参詣している寺社
収録されている納経(御朱印)は120ヶ所。東大寺では大仏殿と二月堂で受けているが、2ヶ所として数えている。国別では山城が21ヶ所、阿波が23ヶ所、大和が15ヶ所、讃岐が13ヶ所、播磨が9ヶ所、河内・近江が各6ヶ所、摂津が5ヶ所、丹波・美作・備前・備中が各3ヶ所、淡路が2ヶ所、土佐と武蔵(江戸)が各1ヶ所である。
もともと六十六部は、日本全国66ヶ国を巡り、その国を代表する寺社一ヶ所(一宮や国分寺とは限らない)を選んで納経していた。しかし18世紀前半の納経帳では各国の一宮と国分寺、西国・坂東・秩父の観音霊場と四国八十八ヶ所、有名な寺社というように巡拝の対象が増えている。
ただし、国分寺の中には早くに廃絶し、後継寺院も残ってないところがある。その場合、国分寺があった村の寺院を選び、国分寺に見立てて納経していたようだ。
そして、この納経帳では一宮・国分寺に加え、各国の「八幡〔やわた〕の八幡宮」も参拝の対象とするようになっている。「八幡の八幡宮」とは私がつけた仮称で、八幡(八幡村など)に鎮座する八幡宮だが、現在も「八幡〔やわた〕の八幡さん」と呼ばれていることが多い。
「八幡の八幡宮」への参拝の本来の目的は、一国一社八幡宮への参拝だと思われる。
一国一社八幡宮は国府八幡宮・国分八幡宮に由来すると考えられている。国府八幡宮・古億部八幡宮は国衙もしくは国分寺の鎮守として祀られた八幡宮で、同じく国司・国衙と関わりの深い一宮・国分寺とのセットで一国を象徴させるような考え方が確立したものと思われる。この組み合わせは19世紀の六十六部の納経帳でも確認できる。
ただ、一国一社八幡宮は一宮や国分寺に較べてきちんとした形で伝わっていない国が多い。そのため八幡村に鎮座する八幡宮を一国一社八幡宮に見立てて参拝するようになったと考えられる。八幡村がない場合は、村の中の字八幡に鎮座する八幡宮を探したようだ。各自が探すわけではなく、誰かが見つけた八幡の八幡宮が情報共有され、六十六部の巡拝所として定着していったようで、19世紀の六十六部の納経帳でも同じところに参拝している例が多い。
むしろ六十六部が巡拝所とした「八幡の八幡宮」を「一国一社八幡宮」と呼ぶようになったという可能性も考えられるが、今後の検討課題としたい。
納経一覧
参考資料
・日本歴史地名大系(平凡社)
・角川日本地名大辞典(角川書店)
・各寺社公式サイト
・『河内名所図会』(国会図書館デジタルコレクション)
・『大日本名所図会』第1輯第3編(国会図書館デジタルコレクション)
・『大和志料』(国会図書館デジタルコレクション)
・『東大寺修二会の儀礼空間』鈴木正崇
・『春日社における貞慶の信仰空間』松村和歌子(海住山寺公式サイト)
・「江戸時代の国分村4」(柏原市公式サイト)
・Wikipedia