天保15年(1844)から弘化4年(1847)にかけて西日本方面を巡拝した、信濃の人と思われる六十六部廻国行者の納経帳。表紙にタイトルはなく、裏表紙には和霊神社(愛媛県宇和島市)の書き置きの納経が貼り付けられている。
信州の北向観音(長野県上田市)から始め、甲斐から東海道、伊勢、紀伊を経て四国に入り、山陰道・若狭を巡拝して信州善光寺で終わっている。詳細は以下のリンクから。
■天保15年(1844)六十六部の納経帳(1)信濃~尾張
■天保15年(1844)六十六部の納経帳(2)伊勢~紀伊
■天保15年(1844)六十六部の納経帳(3)四国
■天保15年(1844)六十六部の納経帳(4)美作~伯耆・書き置き
■天保15年(1844)六十六部の納経帳(5)出雲
■天保15年(1844)六十六部の納経帳(6)伯耆~信濃
神社や真言宗・天台宗の寺院が中心だが、臨済宗・曹洞宗・浄土宗・真宗・日蓮宗の寺院もあり、宗派意識のようなものはなかったようだ。
六十六部の納経帳は、冒頭に六十六部が本所とした仁和寺か寛永寺の納経があることが多いのだが、この納経帳にはどちらの納経もない。西日本方面を巡拝しながら京都や大和など畿内の国々には入っておらず、通過したはずの山陽道や越前から越後にかけての寺社も含まれていないことから、この時の巡礼以前に一度畿内から山陽道・北陸道の巡礼していたことが推測できる。
また、この納経帳では紀州・四国・丹後など四国・西国の巡礼と重なるルートを通過しながら、それらの札所の納経が一つもない。四国・西国の札所については専用の納経帳を携行していたのであろう。
また、巡拝期間が足かけ4年とかなり長くなっているが、納経帳の日付を見ると途中で何度か中断している期間がある。最も長いのは伊予国の綱敷天満宮(愛媛県今治市)と宝珠寺(愛媛県伊予市)の間で(途中の大山祇神社は日付がない)、およそ一年間にわたって旅をストップしている。そのほかにも、髙根白山神社(静岡県藤枝市)と金剛院(静岡県森町)の間で約半月、志摩国分寺(三重県志摩市)と補陀洛寺(和歌山県那智勝浦町)の間で3ヶ月半の空白がある。
わざわざ巡礼を中断して故郷に帰ったとは考えづらいので、知人宅に滞在するか、現地に止まって祈祷などの宗教活動を行ったのではないかと思われる。実際、巡礼の途中で村の堂庵などに定住する六十六部もいたようだ。
信者を相手にする六十六部にとって、各地の神社仏閣を参拝した証である納経帳は一つの宗教者としてのステータスになっただろうし、信者たちにとっては各地の神仏の霊威が宿った有難いものと見えたことだろう。