天保15年(1844)六十六部の納経帳(6)

天保15年六十六部納経帳表紙

天保15年(1844)から弘化4年(1847)にかけて、信濃国の人と思われる六十六部廻国行者が信濃から東海、紀州、四国、中国、丹後、若狭を経て信濃に戻った巡礼の納経帳。そのうち伯耆国から信濃に至る最後の部分を紹介する。

伯耆国から因幡・但馬を通って丹後に入り、そこから再び西国霊場の巡礼路に入って33番谷汲山華厳寺まで巡拝。その後、伊那街道に入って元善光寺に参拝、その半年後に善光寺に参拝し、納経帳が終わっている。西国の札所の納経は含まれてないが、既に述べた通り西国専用の納経帳を携帯していたものと思われる。

伯耆国は(4)にあった大神山神社奥宮と三佛寺を含めて6ヶ所、因幡国が4ヶ所、但馬国が4ヶ所、丹後国が3ヶ所、若狭国と美濃国が1ヶ所ずつ、信濃国は元善光寺と善光寺で、最初に参拝した北向観音などを含めると5ヶ所になる。

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伯耆安国寺

加賀神社・安国寺の納経

【左】伯耆安国寺
万寿山 安国寺
本尊:薬師如来(現在は釈迦如来)
宗派:曹洞宗
所在地:伯耆国会見郡米子城下(鳥取県米子市寺町)

■墨書は「奉納経/伯州米子城/本尊薬師如来/安國寺/執事」、日付は弘化三年午七月二十三日。中央の宝印は「佛法僧寶」の三宝印。右上の印は蓮華座上の火炎宝珠に薬師如来の種字「ベイ」。左下は「執事」。

★安国寺は米子城下の寺町にある。前の潜戸大明神(加賀神社)からは松江城下経由で山陰道を使うか、境港経由で境往来を使うかになるが、どちらとも判断はつかない。
★次の米子八幡神社へは出雲街道を使ったのであろう。

米子八幡神社/伯耆国分寺

米子八幡神社・伯耆国分寺の納経

【右】米子八幡神社
馬場八幡神社(米子八幡神社)
祭神:誉田別尊・足仲彦尊・息長足姫命・物部大連神・素盞嗚命・高良神
所在地:伯耆国会見郡馬場村(鳥取県米子市東八幡)
公式サイト:https://www.yonago-hachiman.com/

■墨書は「伯耆國格社/八幡郷/八幡太神/大宮司従五位下藤原朝臣綱長」、日付は「弘化三年午七月廿三日」。中央上の宝印は十六八重菊の御紋。左下は「藤舎」か?

【左】伯耆国分寺
護国山 国分寺
本尊:薬師如来
宗派:曹洞宗
所在地:伯耆国久米郡国府村(鳥取県倉吉市国府)

■墨書は「奉納経/伯州久米郡/本尊藥師如来御宝前/国府/國分寺/行者丈」、日付は「弘化三年丙午七月廿九日」。中央の宝印は「佛法僧寶」の三宝印。右上の宝印は蓮華座上の火炎宝珠に梵字「ア」。左下の印は判読できない。

★米子八幡神社からは日吉津あたりで伯耆街道(山陰街道)に入って東に進み、八橋宿(現・東伯郡琴浦町八橋)から倉吉に向かう八橋往来に入ったと思われる。八橋往来は伯耆国分寺のある国府村と国分寺村の境を通って倉吉の町に入る。
★倉吉からは倉吉往来を使ったのであろう。次の倭文神社は倉吉往来の松崎宿の北約2kmの山中に鎮座している。なお、このルートは近世の山陰街道(伯耆街道)とは違うが、古代の山陰道とほぼ同じだと推定されているそうだ。

倭文神社/八幡神社(気高町)

倭文神社・八幡神社の納経

【右】倭文神社
倭文神社
祭神:下照姫命(現在は建葉槌命)
所在地:伯耆国河村郡宮内村(鳥取県東伯郡湯梨浜町宮内)

■墨書は「伯州河村郡宮内村/正一位一宮倭文神社/下照姫命/正神主/荒井□□□」、日付は「弘化三午七月卅日」。朱印は中央上と左下にあるが、どちらも判読できない。

【左】八幡神社
正八幡宮(八幡神社)
祭神:誉田別尊・神功皇后・玉依姫命
所在地:因幡国気多郡八幡村(鳥取県鳥取市気高町八幡)

■墨書は「因刕氣多郡八幡村/一國一社正八幡大神宮廣前/氣□□□正義(花押)」、日付は「弘化三年午ノ八月五日」。中央上の宝印は判読できない。その下に朱字で「齊」。

★倭文神社の次は正八幡宮(鳥取市気高町八幡の八幡神社)の納経があるが、その前に三德山三佛寺に参拝している。納経は(4)を参照。
★倭文神社から三佛寺へは、松崎宿から南に向かい、波関峠を越えて三朝谷に入ったものと思われる。片柴村(現・三朝町片柴)から倉吉往来(鹿野道)を東に向かうと三佛寺がある。
★三佛寺からはさらに倉吉往来(鹿野道)を東に進み、志加奴村(現・鳥取市鹿野町鹿野)から鹿野往来を北上したのであろう。鹿野往来沿いの会下村から八幡神社が鎮座する八幡村へは約1.5kmである。
★次の宇倍神社へは伯耆街道を使って鳥取城下に向かったのであろう。鳥取城下から宇倍神社までは南東に約3kmである。

宇倍神社/因幡国分寺

宇倍神社・因幡国分寺の納経

【右】宇倍神社
宇倍神社
祭神:武内宿禰命
所在地:因幡国法美郡宮下村(鳥取県鳥取市国府町宮下)

■墨書は「奉納/因刕国府/正一位一宮宇倍神社/大宮司」、日付は「弘化三年午ノ八月七日」。中央の宝印は「齋」、左下の朱印は判読できない。

【左】因幡国分寺
最勝山 国分寺
本尊:薬師如来
宗派:黄檗宗
所在地:因幡国法美郡国分寺村(鳥取県鳥取市国府町国分寺)

■墨書は「奉納/因刕法美郡/本尊薬師如来/最勝山國分禅寺/行者丈」、日付は「弘化三年午八月七日」。中央の宝印は判読しづらいが、「佛法僧寶」の三宝印だと思われる。左下の印は判読できない。

★因幡国分寺は宇倍神社の南西約1.5km、袋川の対岸にある。
★次の摩尼寺がある覚寺村(は鳥取城下から但馬に向かう但馬往来の別道・山道通が通っている。国分寺から一旦鳥取城下に戻り、この道を使って摩尼寺へ向かったのであろう。

摩尼寺/福岡八幡神社

摩尼寺・福岡八幡神社の納経

【右】摩尼寺
喜見山 摩尼寺
本尊:帝釈天
宗派:天台宗
所在地:因幡国邑美郡覚寺村(鳥取県鳥取市覚寺)

■墨書は「奉納経/因州/喜見山/本堂帝釈天王/摩尼寺/知事」、日付は「弘化三年午八月九日」。中央の宝印は「感應道交」。右上の印は「□領律□」のようだがよくわからない。左下は「知事」だろう。

【左】福岡八幡神社
正八幡宮(八幡神社)
祭神:玉依姫命
所在地:但馬国七美郡福岡村(兵庫県美方郡香美町村岡区福岡)

■墨書は「奉納/但州/福岡村/正八幡宮/神子/和泉正/行者丈」、日付は「弘化三年午八月十六日」。中央は宝印の代わりに朱字で「齋」。左下の印は判読できない。

★覚寺村を通る但馬往来の別道・山道通は山湯山(現・鳥取市福部町湯山)を経て細川村(現・鳥取市福部町細川)で但馬往来(山陰道)の本道に合流する。但馬往来は因幡側の呼称で、蒲生峠を越えて但馬に入ると山陰道と呼んだようだ。正八幡宮(福岡八幡神社)の鎮座する福岡村は山陰道沿いにある。
★次の北辰妙見宮(名草神社)は福岡村の東約5km、妙見山の北東山腹に鎮座する。妙見山の西麓・作山村(現・香美町村岡区作山)からの参詣道があったようなので、これを使ったのであろう。

名草神社/但馬国分寺

名草神社・但馬国分寺の納経

【右】名草神社
妙見宮(名草神社)
祭神:妙見菩薩(現在は名草彦大神)
所在地:但馬国養父郡石原村(兵庫県養父市八鹿町石原)

■墨書は「奉納經/但刕/北辰妙見宮/別当 帝釈寺/行者丈」、日付は「弘化三年午八月十七日」。中央の宝印は判読できないが、「帝釈寺」だろうか。
※別当の帝釈寺は一山の総称で、本坊は日光院(真言宗)だった。明治の神仏分離で妙見宮は名草神社となり、日光院は麓の石原に移った。

【左】但馬国分寺
護国山 国分寺
本尊:薬師如来
宗派:浄土宗
所在地:但馬国気多郡国分寺村(兵庫県豊岡市日高町国分寺)

■墨書は「奉納經/但馬国 國分寺/勅願所/藥師如来宝前/行者丈」、日付は「弘化三年八月十九日」。中央の宝印は判読できないが「薬師如来」か。右下の印は「護」ではないかと思われる。

★但馬国分寺は妙見宮(名草神社)の北東12kmのところにある。妙見宮のメインの参道は麓の石原村(養父市八鹿町石原)から日畑村(養父市八鹿町日畑)を経て門前の妙見集落に向かう道だが、但馬国分寺へは北東の観音寺村(豊岡市日高町観音寺)からの参道を使った方が便利である。観音寺村からの道をさらに下っていくと宵田村(豊岡市日高市宵田)で豊岡街道に当たる。但馬国分寺は宵田村の北約500mである。
★出石神社は但馬国分寺の東約9kmにある。豊岡街道は使わず、東に向かう道を使ったのではないかと思われる。

出石神社/丹後国分寺

出石神社・丹後国分寺の納経

【右】出石神社
出石神社
祭神:伊豆志八前大神・天日槍命
所在地:但馬国出石郡宮内村(兵庫県豊岡市出石町宮内)

■墨書は「但馬国一宮/勅願所/伊豆志坐大社 廣前/神主/長尾日向守/行者丈」、日付は「弘化三年午八月廿一日」。「伊豆志坐大社」という社名は、延喜式神名帳の「伊豆志坐神社」と日本紀略にある「出石大社」を合わせたものであろう。中央の宝印は火炎宝珠だが、中の図形については不明。左下の印は「長家」であろう。

【左】丹後国分寺
護国山 国分寺
本尊:薬師如来
宗派:真言宗
所在地:丹後国与謝郡国分村(京都府宮津市国分)

■墨書は「奉納経/丹后與謝郡府中/本尊藥師如来御寶前/護國山國分寺/行者丈」、日付はない。中央上の宝印は蓮華座上の円に薬師如来の種字「ベイ」。右の印は「聖武天皇勅願所」、左下の印は「護國山」。

★出石神社は出石城下の北郊外にある。出石城下からは丹後の宮津に向かう出石・宮津道があり、これは西国28番成相寺への参詣道でもある。丹後国分寺がある国分村は成相寺への登り口の一つであり、ここからは西国霊場の巡拝路をほぼそのまま使ったのだろう。
★丹後国分寺の次は籠神社だが、成相寺へも参拝していることは間違いない。成相寺の納経はないが、西国専用の納経帳にいただいたのであろう。丹後国分寺も籠神社も近くに成相寺への登り口があ。位置関係から考えて丹後国分寺-成相寺-籠神社の順で参拝したと思われる。

籠神社/智恩寺

籠神社・智恩寺の納経

【右】籠神社
籠守神社(籠神社)
祭神:彦火明命
所在地:丹後国与謝郡大垣村(京都府宮津市大垣)

■墨書は「一宮丹後国/籠守神社/神主」、日付は「午八月廿三日」。中央の宝印は判読できない。左下の印は「丹後國一之宮」。

【左】智恩寺(切戸文殊)
天橋山 智恩寺
本尊:文殊菩薩
宗派:臨済宗
所在地:丹後国与謝郡文殊門前(京都府宮津市文珠)

■墨書は「奉納経/丹後切渡/本尊文殊大士/天橋山/智恩寺/役者」、日付は「午八月廿三日」。中央の宝印は十六八重菊の御紋。右上の印は「日本弎景」、左下は「橋山知事」。

★籠神社は天橋立の北、智恩寺は南にある。智恩寺へは天橋立を通ったであろう。
★智恩寺の次は八百姫神社(小浜市、現在は神明神社の摂社)で、やはり西国三十三所の巡拝路沿いにある。宮津から若狭街道を東に進み、田辺(舞鶴)、西国29番松尾寺を経て小浜に向かったのであろう。ただし、一部は海路を使った可能性もある。八百姫神社が鎮座する青井村(現・小浜市青井)は小浜城下の西の入り口に当たる。

八百姫神社/八幡神社(池田町)

八百姫神社・八幡神社の納経

【右】八百姫神社
八百姫神社(小浜神明神社摂社 八百姫神社)
祭神:八百姫神
所在地:若狭国遠敷郡青井村(福井県小浜市青井)

■墨書は「若狭國/八百姫神社/社司」、日付は「九月三日」。中央に宝印はない。左下の印は判読できない。
※小浜市青井に鎮座する神明神社の境内摂社。八百比丘尼を祀るとされる。複数の六十六部の納経帳に八百姫神社の納経があるため、六十六部の定番の

【左】八幡神社(揖斐郡池田町)
正八幡宮(八幡神社)
祭神:応神天皇
所在地:美濃国池田郡八幡村(岐阜県揖斐郡池田町八幡)

■墨書は「奉納経/美濃国/正八幡宮神前/池田郡八幡村/竹井□□□」、日付は「午九月八日」。中央の宝印は「美濃 八幡 正八幡宮」。左下の印は判読できない。
※八幡村(揖斐郡池田町八幡)には八幡神社が三社ある。このうち字村中(八幡918番地)の由緒を見ると「遠近六十六部巡拝者の参拝に納経符を受くるもの常に絶ゆることなく近隣に比類無き美濃国一の宮として崇敬篤き処なり」(『平成「祭」データ』など)とあり、こちらで間違いないだろうと思われる。

★八百姫神社に参拝した後も西国霊場の巡拝路を進み、30番宝厳寺・31番長命寺・32番観音正寺を参拝して33番谷汲山華厳寺に向かったものと思われる。正八幡宮(八幡神社)は中山道の赤坂宿から華厳寺に向かう谷汲巡礼街道の近くにある。
★次の元善光寺へは、華厳寺を参拝して岐阜に向かい、加納宿(岐阜市)から再び中山道に入ったのであろう。落合宿(中津川市)から神坂峠越え、もしくは妻籠宿(木曽郡南木曽町)から大平街道経由で飯田城下に向かったのではないかと思われる。元善光寺は飯田城の北東約3kmのところにある。

元善光寺/善光寺

元善光寺・善光寺の納経

【右】元善光寺
不捨山 座光寺(定額山 元善光寺)
本尊:善光寺如来
宗派:天台宗
所在地:信濃国伊那郡座光寺村(長野県飯田市座光寺)

■墨書は「奉納経/信刕/元善光寺/別當/座光寺」、日付は「午九月十七日」。朱印は3ヶ所にあるが、いずれも判読できない。

【左】善光寺
定額山 善光寺
本尊:一光三尊阿弥陀如来
宗派:無宗派(天台宗・浄土宗)
所在地:信濃国水内郡善光寺町(長野県長野市元善町)

■墨書は「奉納経/善光寺/堂司」、日付は「丁未二月十七日」。中央の宝印は「善光寺本堂」。右上の印は白抜きで「定額山」、左下は同じく白抜きで「奉行」。この墨書と朱印の組み合わせは、「奉納経」が「奉拝」に変わったことを除いて現代でも基本的に同じである。

★元善光寺からは、伊那街道を北に進み、北国西街道(善光寺道)を使って善光寺に至ったと考えるのが妥当であろう。ただ、元善光寺と善光寺の参拝日は約5ヶ月空いており、この納経帳の持ち主が信濃国の住人だと考えられることなどから、一旦地元に帰るなどしている可能性もあるだろう。

最初の北向観音に参拝したのが天保15年9月29日(西暦1844年11月9日)、最後の善光寺に参拝したのが弘化4年2月17日(西暦1847年4月2日)、約2年5ヶ月かけて巡拝していることになる。

天保15年(1844)から弘化4年(1847)にかけて西日本方面を巡拝した、信濃の人と思われる六十六部廻国行者の納経帳。表紙にタイトルは...

天保15年(1844)六十六部の納経帳(1)信濃~尾張
天保15年(1844)六十六部の納経帳(2)伊勢~紀伊
天保15年(1844)六十六部の納経帳(3)四国
天保15年(1844)六十六部の納経帳(4)美作~伯耆・書き置き
天保15年(1844)六十六部の納経帳(5)出雲
■天保15年(1844)六十六部の納経帳(6)伯耆~信濃


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