天保15年(1844)六十六部の納経帳(2)

天保15年六十六部納経帳表紙

天保15年(1844)から弘化4年(1847)にかけて、信濃国の人と思われる六十六部廻国行者が信濃から東海、紀州、四国、中国、北陸を経て信濃に戻った巡礼の納経帳。ここでは伊勢から紀伊の寺社の納経を紹介する。

伊勢国の寺社が5ヶ所、志摩国の寺社が3ヶ所、紀伊国の寺社が7ヶ所あるが、納経帳後半に書き置きの納経がまとめて綴られており、この区間のものとしては志摩の伊雑宮と爪切不動尊、紀伊の慈尊院の納経がある。また、納経帳の前のほうには高野山奥之院の納経がある。

一方、この区間では必ず参拝したと思われる本宮・新宮・那智の熊野三山(那智は西国1番札所を兼ねる)と西国2番紀三井寺の納経がない。これは西国霊場専用の納経帳を別に持っていて、本宮・新宮もそちらに受けたのではないだろうか。伊勢神宮は常明寺と朝熊山金剛證寺の納経を当てているのではないかと思われる。

志摩国分寺と那智勝浦の補陀洛山寺の間は約3ヶ月間空いている。難所ではあるが、それほどの時間がかかるとは考えられないので、途中のどこかで滞在していたのだろう。この間、天保15年12月には改元があり、弘化元年となっている。

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伊勢から紀伊の寺社の納経

子安観音寺/高田本山専修寺

観音寺・高田専修寺の納経

【右】子安観音寺
白子山 観音寺(通称:子安観音)
本尊:白衣観世音菩薩
宗派:真言宗
所在地:伊勢国奄芸郡寺家村(三重県鈴鹿市寺家)

■墨書は「勅願所/本尊白衣観世音/勢州白子山 知事」、日付は「辰十一月十九日」。中央の宝印は判読しづらいが、蓮華座上の火炎宝珠に白衣観音の種字「ハン」だろう。左下の印も薄くて判読しづらいのだが、「知事」ではないかと思われる。

【左】高田本山専修寺
高田山 専修寺
本尊:阿弥陀如来
宗派:真宗(真宗高田派本山)
所在地:伊勢国奄芸郡一身田村(三重県津市一身田町)

■墨書は「高田山/専修寺門跡/御山内/厚源寺 役者」、日付は「辰十一月十九日」。左下に黒印があり、薄くて判読しづらいが「厚源寺」ではないかと思われる。
※厚源寺は専修寺の塔頭で、現在も黒門の東側にある。寛政2年(1790)の真宗の門徒の順拝帳でも厚源寺が対応しており、内容もほぼ同一なので、専修寺の御判(真宗は納経ではない)は厚源寺が対応するようになっていたのかもしれない。

★伊勢へは三里の渡しで桑名に上陸し、四日市を経て日永の追分から伊勢参宮街道に入ったと思われる。子安観音寺のある寺家村はもともと白子村の枝郷で、白子の宿を出てすぐのあたりにある。専修寺は伊勢参宮街道から2kmほど西にある。
★専修寺の南側を伊勢別街道(関宿の東で東海道から分岐し、津の郊外・江戸橋で伊勢参宮街道に合流する)が通っており、これを使って津の城下町に入ったと思われる。次の大宝院は津観音の本坊で、津城下の中心にあった。

大宝院(津観音本坊)/常明寺

大宝院・常明寺の納経

【右】大宝院(津観音本坊)
蓬莱山 大宝院(恵日山 観音寺 大宝院、通称:津観音)
本尊:阿弥陀如来(通称:国府阿弥陀如来、津観音の本尊は聖観世音菩薩)
宗派:真言宗
所在地:伊勢国安濃郡津城下大門町(三重県津市大門)

■墨書は「勅願所/天照皇太神宮御本地佛/國府阿彌陀如來/勢州津/大寶院役者」、日付は「天保十五年辰霜月十九日」。中央の宝印は十六八重菊の御紋。右上の印は「國府阿弥陀」、左下は「執事」。
※大宝院は、浅草観音・大須観音とともに日本三観音と称される津観音(観音寺)の本坊だった。観音寺は一山の総称で住職はおらず、大宝院を中心とする4院で寺務を司っていた。もともと大宝院は窪田村(津市大里窪田町)にあったが、天正3年(1575)織田信包の命で津観音の内に移転した。この時、鈴鹿郡国府村(鈴鹿市国府町)の無量寿寺から伊勢神宮天照皇大神の本地仏とされる国府の阿弥陀如来を遷し、本尊とした。江戸時代、伊勢参宮の際には「津に参らねば片参り」と言われるほど参詣者を集めたという。現在、元の大宝院は寺務所のようになっており、国府阿弥陀如来は津観音の本堂に祀られている。

【左】常明寺
高日山 法楽院 常明寺(廃寺、後に日蓮宗の寺院として再興)
本尊:薬師如来(現在は三宝尊)
宗派:天台宗(現在は日蓮宗)
所在地:伊勢国度会郡山田常明寺門前町(三重県伊勢市倭町、現在は伊勢市一之木)

■墨書は「奉納經 勢州山田/兩太神宮内院/高日山 常明寺 知事」、日付は「天保十四年(十五年の間違いだろう)十一月廿日」。中央の宝印は火炎宝珠の中の蓮華座上に薬師如来の種字「ベイ」。右上の印は白抜きで「兩宮内院」、左下は「高日山 常明寺」。
※外宮と内宮の中間にあり、渡会氏の氏寺であった。江戸時代、門前は古市に並ぶほど反映したという。延宝3年(1675)門前の鳥居に「両太神宮内院高日山常明寺」の扁額を掲げたことを神宮が問題視し、山田奉行に訴え出た。奉行の裁定により扁額は取り下げられ、鳥居は朽ちるに任せられることになったが、常明寺は汚損個所があると夜半に古木で修繕し、明治維新まで維持したという。扁額は取り下げさせられたが、それから150年以上経った天保年間でも、納経には「両太神宮内院」を使い続けていたようだ。

※常明寺は明治の廃仏毀釈で廃寺となったが、日蓮聖人がここに100日間参籠して伊勢神宮に参拝し、三大誓願を立てたと伝えられることから日蓮宗寺院として再興された。旧地も日蓮聖人の旧蹟として整備されている。また常明寺の本堂内には「両太神宮内院 高日山常明寺」の扁額が掲げられている。

★津観音の門前を伊勢参宮街道が通っており、往時は浅草・大須に並ぶ繁栄ぶりだったという。伊勢神宮では内宮の法楽舎で納経を行っていたが、常明寺での納経をこれに代えたのだろうか。神宮に参拝していないということはないだろう。
★次のページは朝熊ヶ岳金剛證寺だが、その前に伊雑宮に参拝しているようだ(伊雑宮の納経は書き置きで後半に綴られている。伊雑宮の参拝は11月22日、金剛證寺は翌23日)。内宮から磯部道を通って伊雑宮に向かったと思われる。伊雑宮から朝熊ヶ岳へは五知村(志摩市磯部町五知)からの登拝道を使ったのではないかと思われる。

金剛證寺/正福寺

金剛證寺・正福寺の納経

【右】朝熊岳 金剛證寺
勝峰山 兜率院 金剛証寺
本尊:虚空蔵菩薩
宗派:臨済宗
所在地:伊勢国度会郡朝熊村(三重県伊勢市朝熊町岳)

■墨書は「奉拝/勢州朝熊岳/蔵主」、日付は「十一月廿一日」。中央に宝印はない(印のように見えるのは、正福寺の宝印が写ったもののようだ)。左下の印は「朝熊岳」。

【左】正福寺
青峯山 正福寺
本尊:十一面観世音菩薩
宗派:真言宗
所在地:志摩国答志郡松尾村(三重県鳥羽市松尾町)

■墨書は「奉納経 志州青峯山/本尊大悲閣/正福寺 執事」、日付は「天保十五年十一月廿二日」。中央の宝印は火炎宝珠に十一面観音の種字「キャ」。右上の朱印は白抜きで「青峯山」のようである。左下の黒印は「志陽 青峯」。

★朝熊ヶ岳からは再び麓の五知村(志摩市磯部町五知)へ下り、そこから青峯山頂近くにある正福寺へ向かったのではないかと思われる。五知は朝熊ヶ岳への登山口であると同時に青峯山への登山口でもあった。正福寺からは北麓の松尾村(鳥羽市松尾町)に下り、鳥羽道を北に向かい、安楽島の伊射波神社に参拝している。

伊射波神社/志摩国分寺

伊射波神社・志摩国分寺の納経

【右】伊射波神社
加布良古明神(伊射波神社)
祭神:伊射波登美命
所在地:志摩国答志郡安楽島村(三重県鳥羽市安楽島町)

■墨書は「奉納経/安楽島村/傳法院/志州一ノ宮/伊射波大明神/行者丈」、日付は「天保十五年辰十一月二十三日」。中央の宝印は白抜きで「佛法僧寶」の三宝印。左下の印は判読できない。
※正式名称を伊射波神社に改めたのは明治初年。別当の伝法院は曹洞宗で、今も安楽島町の伊射波神社参道入り口付近にある。

【左】志摩国分寺
護国山 国分寺
本尊:薬師如来
宗派:天台宗
所在地:志摩国答志郡国府村(三重県志摩市阿児町国府)

■墨書は「奉納經 國府邑/志州答志郡/勅願所/本尊藥師如來/護國山/國分寺/知事」、日付は天保十五甲辰年霜月二十七日」。中央の宝印は「佛法僧寶」の三宝印。右上の印は白抜きで「勅願所」だと思われる。左下の印は判読できない。

★安楽島は昭和の干拓事業で本土と陸続きになったが、当時は島だった。伊射波神社に参拝した後、再び鳥羽道を南下し、松尾、五知、伊雑宮のある上之郷を経て志摩国分寺に向かったのだろう。
★その後のルートは熊野まで納経がないので判断できないが、もう一度磯部道を通って伊勢神宮方面に戻り、伊勢街道を熊野に向かったと考えるのが妥当ではないだろうか。
★志摩国分寺の次は那智の補陀洛山寺だが、三ヶ月余り空いている。難所ではあるし、途中で新宮にも参拝しているはずだが、それにしても時間がかかり過ぎている。途中、どこかに滞在したものと考えられる。

補陀洛山寺/妙法山

補陀洛山寺・妙法山の納経

【右】補陀洛山寺
白華山 補陀洛山寺
本尊:千手観世音菩薩
宗派:天台宗
所在地:紀伊国牟婁郡浜ノ宮村(和歌山県東牟婁郡那智勝浦町浜の宮)

■墨書は「奉納經/熊野濱ノ宮/本尊千手観世音/補陀洛寺知事」、日付は「巳三月十二日」。中央の宝印は蓮華座上の火炎宝珠に千手観音の種字「キリーク」。左下の印は判読できない。

【左】妙法山
妙法山 阿弥陀寺
本尊:阿弥陀如来
宗派:禅宗(明治初期に真言宗に帰属)
所在地:紀伊国牟婁郡平野村(和歌山県東牟婁郡那智勝浦町南平野)

■墨書は「奉納/本尊阿弥陀如来/中堂弘法大士/奥院釈迦文佛/妙法山」、日付は「巳三月十二日」。中央の宝印は「寶印」、その下に蓮華座の印。右上の印は「熊野妙法山」、左下は「紀州 妙法」。

★補陀洛山寺の前に新宮(熊野速玉大社)を参拝したはずだが、その納経はない。西国霊場専用の納経帳に受けたと思われる。
★補陀洛山寺から妙法山の間には那智山の熊野十二所権現(熊野那智大社)と如意輪堂(西国1番札所・青岸渡寺)などがあるが、その納経も西国専用の納経に受けたのだろう。当時、熊野十二所権現と如意輪道の納経は一つにまとめられており、西国一番の納経を兼ねていた。
★妙法山阿弥陀寺の奥之院から北に進むと大雲取越えに出る。ここから本宮へと向かったのであろう。次の納経は熊野本宮近くの湯胸薬師・東光寺である。

湯胸薬師東光寺/丹生都比売神社

東光寺・丹生都比売神社の納経

【右】湯胸薬師東光寺
薬王山 東光寺
本尊:薬師如来(湯ノ胸薬師)
宗派:天台宗
所在地:紀伊国牟婁郡湯峯村(和歌山県田辺市本宮町湯峯)

■墨書は「奉納經/熊野本宮湯峯/藥師如来寶前/別當東光寺/行者丈」、日付は「巳三月十三日」。中央に宝印はなさそうだ(宝印のように見えるのは丹生都比売神社の宝印が写ったもののように思える)。左下の印は判読できない。

【左】丹生都比売神社
天野神社(丹生都比売神社)
祭神:丹生都比売大神・高野御子大神・大食津比売大神・市杵島比売大神
所在地:紀伊国伊都郡上天野村(和歌山県伊都郡かつらぎ町上天野)

■墨書は「奉納經/紀州伊都郡/正一位丹生大明神御寶前/天野/丹生惣神主/役人」、日付は「弘化二巳年三月十八日」。中央の宝印は判読しづらいが、宝珠の中央に「丹生○」、左に「天野」の文字が見える。右側はわからない。

★東光寺は熊野本宮大社の近くにあり、当然本宮にも参拝したはずだが納経はない。新宮・那智と同様に西国霊場専用の納経にいただいたものと思われる。本宮からは小辺路を使って高野山に向かったものと思われる。小辺路は熊野と高野山を結ぶ最短ルートだが、何度も1000m級の山越えをする厳しい道筋でもある。
★丹生都比売神社の前日には高野山奥之院に参拝しているが、納経は前のほうにある。
★丹生都比売神社の次のページは九度山の善名称院(真田庵)の納経だが、同じ日に慈尊院にも参拝している(納経は書き置きで、納経帳の後半に綴られている)。高野山の大門から丁石道を下り、途中、天野に立ち寄って丹生都比売神社を詣で、再び丁石道に戻ってその登り口である慈尊院に参拝、それから善名称院に参拝したものと思われる。

善名称院(真田庵)/紀伊国分寺

真田庵・紀伊国分寺の納経

【右】善名称院
佉羅陀山 善名称院(通称:真田庵)
本尊:地蔵菩薩
宗派:真言宗
所在地:紀伊国伊都郡九度山村(和歌山県伊都郡九度山町九度山)

■墨書は「奉納経/佉羅陀山/地蔵尊御寶前/紀州九度山/善名称院知事」、日付は「弘化二巳年三月十九日」。中央に宝印はない。右上の印は白抜きで「佉羅陀山」、左下は「大安」。「大安」は善名称院の開基である大安上人のことであろう。

【左】紀伊国分寺
八光山 医王院 国分寺
本尊:薬師如来
宗派:真言宗
所在地:紀伊国那賀郡東国分村(和歌山県紀の川市東国分)

■墨書は「奉納經/本尊薬師如来/紀州那賀郡国分村/八光山 國分寺」、日付は「弘化二年巳三月二十二日」。中央の宝印は火炎宝珠に薬師如来の種字「ベイ」。左下の印は「八光山」。

★善名称院から紀伊国分寺へは紀ノ川沿いに下ったと思われる。ただ、善名称院の参拝が19日で紀伊国分寺は22日、その間が20kmほどであることを考えると、途中の西国3番粉河寺に参拝したとしても時間がかかりすぎている。いったん和泉山脈を越えて西国4番施福寺に参拝し、それから粉河寺を経て紀伊国分寺に向かったのかも知れない。
★紀伊国分寺からそのまま紀ノ川沿いに進むと次の淡島神社に着く。淡島神社のある加太は古くからの重要な港で、紀伊から淡路・四国に向かう古代の南海道もこのルートだった。しかし、淡島神社の参拝は24日でやはり時間がかかりすぎている。いったん南に向かって西国2番紀三井寺に参拝し、それから加太に向かった可能性も考えられるだろう。

淡島神社

淡島神社・岩田神社の納経

【右】淡島神社
淡島神社
祭神:少彦名命・大己貴命・息長足姫命
所在地:紀伊国海部郡加太村(和歌山県和歌山市加太)

■墨書は「南紀/奉詣/加太淡島神社/当番/社家」、日付は「三月廿四日」。中央の宝印は蓮華座上の宝珠に淡嶋明神の本地仏・虚空蔵菩薩の種字「タラーク」ではないかと思われる。左下の黒印は判読できない。

★淡島神社のある加太と阿波の撫養を結ぶ航路は、高野山や紀伊方面から四国に向かう江戸時代の遍路が使ったルートである。これを使って阿波に渡り、四国1番霊山寺から10番切幡寺を通過(参拝したかどうかは確認できない)、日開谷川沿いに北上し、88番大窪寺から逆打ちで四国八十八ヶ所を巡拝したのであろう。本札所の納経は四国八十八ヶ所専用の納経帳にいただいたようで、この納経帳には番外等の納経しかない。
★淡島神社の次のページにある正八幡宮(岩田神社)は83番一宮寺から82番根香寺へ向かう途中にある。その前に85番八栗寺と84番屋島寺の間にある番外札所・洲崎寺に参拝したようで、納経帳の後半に書き置きの納経が綴られている。

天保15年(1844)から弘化4年(1847)にかけて西日本方面を巡拝した、信濃の人と思われる六十六部廻国行者の納経帳。表紙にタイトルは...

天保15年(1844)六十六部の納経帳(1)信濃~尾張
■天保15年(1844)六十六部の納経帳(2)伊勢~紀伊
■天保15年(1844)六十六部の納経帳(3)四国
■天保15年(1844)六十六部の納経帳(4)美作~伯耆・書き置き
■天保15年(1844)六十六部の納経帳(5)出雲
■天保15年(1844)六十六部の納経帳(6)伯耆~信濃


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