稲荷鬼王神社は、承応2年(1653)諏訪村の諏訪神社の末社・福瑳稲荷を勧請し、西大久保村新田町の鎮守としたことに始まる。天保2年(1831)鬼王権現を合祀した。鬼王権現は宝暦2年(1752)紀州から勧請したもので、腫れ物・湿疹その他の諸病について、神前に豆腐を供え、祈願者もしくは代理のものが豆腐を断ち、「撫で守」で患部を撫でれば必ず平癒するという。
正式名称 | 稲荷神社〔いなりじんじゃ〕 |
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通称 | 稲荷鬼王神社〔いなりきおうじんじゃ〕 |
御祭神 | 宇賀能御魂命 鬼王権現(月夜見命・大物主命・天手力男命) |
社格等 | 旧村社 |
鎮座地 | 東京都新宿区歌舞伎町2-17-5 [Mapion|googlemap] |
御朱印
(1)平成17年に拝受した御朱印。中央の朱印は神璽、下は「稲荷鬼王神社」。
(2)新宿山ノ手七福神・恵比寿神の御朱印(末社・三島神社)。平成19年拝受。
御由緒
稲荷鬼王神社は、承応2年(1653)諏訪村(現在の高田馬場)の諏訪神社の末社・福瑳稲荷を勧請し、西大久保村新田町の鎮守としたことを創祀とする。旧別当は修験道当山派の三宝山大乗院(廃寺)。
当時諏訪村は大久保村の枝郷で、諏訪神社は諏訪村・西大久保村・戸塚村・大久保百人町などの総鎮守であった。
なお、勧請の年代については異説もあり、『新編武蔵風土記稿』には万治年中(1658~61)、『東京府豊多摩郡誌』には万治3年(1660)とある。
明治7年(1874)村社に列格。
合祀の鬼王権現については次のような伝承がある。
宝暦2年(1752)目代百姓の田中清右衛門が旅先の紀州熊野で湿疹に苦しんだ。この時、霊夢により近くの鬼王権現に豆腐を供えて祈願したところ、平癒の霊験を得た。そこで帰国の際、その石造を請い受けて持ち帰り、自宅に奉安したという。ところが文政9年(1826)子孫の源之助の代に火事で家が焼失し、祀るところがなくなったため、天保2年(1831)村人が協議して福瑳稲荷に合祀したと伝えられる。
ただし紀州に鬼王権現は現存せず、鬼王と称する社寺は当社のみという。一説には、平将門の幼名・鬼王丸と関連するともいわれる。
鬼王権現は全国一社福授けの社として信仰を集め、ことに「撫で守り」の授与で知られる。湿疹・腫物その他諸病一切について、神社に豆腐を奉納し、病が治るまで本人もしくは代理の者が豆腐を断ち、「撫で守り」で患部を撫でると必ず平癒するという。明治15年(1882)頃までは社前に豆腐屋数軒があり、御供えの豆腐だけで家計を営むことができたという。
二月の節分には、御祭神に因み、鬼を春の神として「福は内、鬼は内」と唱えながら豆を撒く。
境内の恵比寿神社(三島神社)に祀られている恵比寿神は新宿山ノ手七福神の一つ。文化年間(1804~18)松平出雲守(松江藩主・松平斉恒か?)から同家の祈願所であった東大久保の二尊院(抜弁天厳島神社の別当・廃寺)に寄進された。嘉永6年(1853)二尊院が火災に遭い、同寺の別当を兼ねていた鬼王神社社家の大久保氏が自宅に遷し、後に当社の境内に祀ったものである。
また境内の隅には富士塚(西久保の厄除け富士)がある。昭和5年(1930)富士山の溶岩や各地の名石によって造られたが、戦時中の空襲によって基盤がゆるみ、縮小・移動を繰り返した結果、一合目~四合目と五合目~頂上の二つに分かれた現在の姿になったという。
写真帖
メモ
歌舞伎町の北のはずれ、ビルの谷間に稲荷鬼王神社の鎮守の森がある。七福神巡りなどで冬場に参拝すると、木が葉を落としているので明るい印象だが、緑の生い茂る季節にはちょっと薄暗い印象となり、鬱蒼とした森のような雰囲気を作り出している。
稲荷鬼王神社の概要
名称 | 稲荷神社 |
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通称 | 稲荷鬼王神社 |
御祭神 | 宇賀能御魂命〔うがのみたまのみこと〕 鬼王権現〔きおうごんげん〕 ・月夜見命〔つきよみのみこと〕 ・大物主命〔おおものぬしのみこと〕 ・天手力男命〔あめのたじからおのみこと〕 〈合祀〉 旧大久保村の神 |
鎮座地 | 東京都新宿区歌舞伎町二丁目17番5号 |
創建年代 | 稲荷神社:承応2年(1653) 鬼王神社:宝暦2年(1752) 天保2年(1831)合祀 |
社格等 | 旧村社 |
例祭 | 9月18日 |
神事・行事 | 1月1日/歳旦祭 2月3日/節分追儺祭 2月中午の日/初午祭 4月18日~末日/鎮花祭(さくら草祭) 6月30日/夏越祭 7月1日/浅間祭(山開き) 10月19・20日/新宿ゑびす祭 11月23日/新嘗祭 12月31日/除夜祭 |
巡拝 | 新宿山ノ手七福神(恵比寿神) |
交通アクセス
□副都心線・都営大江戸線「東新宿駅」より徒歩約2分
□丸ノ内線・副都心線・都営新宿線「新宿三丁目駅」より徒歩7分
□西武新宿線「西武新宿駅」より徒歩7分