成子天神社は、延喜3年(903)菅原道真が薨去したことを聞いた家臣の佐伯と斉宮が、太宰府より道真自刻の像を持ち帰り、現在の柏木公園(北新宿)のあたりに祀ったことに始まるという。寛文元年(1661)成子村が柏木村から分村するにあたり、現社地に遷して氏神とした。平成25年(2013)「成子天神社再生プロジェクト」として新しい社殿が落成した。
正式名称 | 成子天神社〔なるこてんじんじゃ〕 |
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御祭神 | 菅原道真 |
社格等 | 旧村社 |
鎮座地 | 東京都新宿区西新宿8-14-10 [Mapion|googlemap] |
公式サイト | http://www.naruko-t.org/ |
御朱印
(1)平成17年拝受の御朱印。見開き2ページで、右ページの揮毫は「天満宮」。上の朱印は梅鉢の神紋、下は「成子天神社」。左ページは七福神のスタンプ。
(2)平成26年拝受の御朱印。平成17年のものとほぼ同じで、右上に「成子天神社」のスタンプがある。
御由緒
社伝によれば、延喜3年(903)菅原道真公が太宰府で薨去した。これを聞いた家臣の佐伯・斉宮の二人は嘆き悲しみ、太宰府から菅公自刻の像を持ち帰って祀ったことのが成子天神社の創祀であるという。元の鎮座地は現在の柏木公園(北新宿)のあたりであった。建久8年(1197)源頼朝が社殿を造営したと伝えられる。
一方、柏木村(現・北新宿)の鎧神社の御由緒によれば、この天満宮は鎧神社の摂社であったという。もともと柏木成子は鎧神社の氏子であったが、寛文元年(1661)成子村が柏木村から分村するに際し、摂社の天満宮を現社地に遷して村の鎮守とした。別当は鎧神社と同じく円照寺であった。なお、旧社地にも天満宮が残り、元天神と称されていたが、明治の中頃に鎧神社境内に遷され、摂社とされている。
寛政3年(1791)火災のため、神宝・記録等を悉く焼失した。
明治5年(1872)村社に列格。その後、社号を北野神社としたが、同27年(1894)成子神社と改めた(成子天神社への改称の時期は未確認)。
昭和20年(1945)にも戦災のため社殿等焼失した。その後、同41年(1966)鉄筋コンクリート造の社殿を再建。
旧社務所の後ろには富士塚(成子富士)がある。大正9年(1920)境内にあった天神山を改造して富士塚としたもので、高さ12メートル。新宿区の登録史跡である。富士塚に祀られている七福神の石像は、昭和58年(1983)に設置されたものという。
平成23年(2011)より「成子天神社再生プロジェクト」として社殿等の全面改築、高層マンションの建設などが進められ、同25年(2013)12月完成、遷座式が行われた。
写真帖
メモ
平成24年6月の時点では、再生プロジェクトにより旧社殿・社務所等は解体され、境内入り口に仮社殿が設けられている。このプロジェクトを巡っては地元といろいろ軋轢があるような話も聞く。
平成17年に初めて参拝したとき、七福神のスタンプも押していただいたのだが、七福神が祀られている成子富士は普段非公開で、登拝どころか見ることすら叶わず、残念な思いをした。ところが22年5月に参拝したときは解放されており、躑躅の咲き乱れる成子富士に登拝することができた。
追記:平成26年7月、新しくなった成子天神社に参拝。いろいろ変わっていたが、まず参道入り口にあった石の鳥居がなくなり、奥の方に朱の鳥居と神門が新たに設けられていた。神楽殿は能舞台の趣。成子冨士は、明るい時間は解放されているようである。頂上にあった木花開耶媛命の石像は麓の浅間神社脇に移されていたが、これは東日本大震災で倒れたためのようである。成子冨士の登山道に安置されていた七福神像は、境内各所に移されている。スッキリとした印象の明るい神社になったが、以前の都会の真ん中らしからぬ鬱蒼とした雰囲気が失われたのは少々残念な気がしないでもない。
成子天神社の概要
名称 | 成子天神社 |
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旧称 | 天満宮 北野神社 成子神社 |
御祭神 | 菅原道真〔すがわらのみちざね〕 |
鎮座地 | 東京都新宿区西新宿八丁目14番10号 |
創建年代 | 延喜3年(903) |
社格等 | 旧村社 |
例祭 | 9月25日 |
神事・行事 | 1月1日/歳旦祭 2月3日/節分祭 2月上午の日/稲荷祭 6月30日/大祓祭 7月1日/浅間祭 11月酉の日/大鳥祭(酉の市) 12月31日/大祓祭・除夜祭 |
交通アクセス
□丸ノ内線「西新宿駅」より徒歩2分
□都営大江戸線「都庁前駅」より徒歩8分
□JR「新宿駅」より徒歩11分
□西武新宿線「西武新宿駅」より徒歩12分