教派神道十三派の一で、富士講の流れを汲む扶桑教の本祠。明治9年(1876)芝区芝神明町(港区浜松町)に設立された。明治32年(1899)渋谷へ、さらに大正7年(1918)荏原郡松沢村(世田谷区松原)の現在地に移転した。
正式名称 | 扶桑教太祠〔ふそうきょう たいし〕 |
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御祭神 | 大祖参神(天之御中主大神・高皇産霊大神・神皇産霊大神) 〈相殿〉天照大御神・月夜見大神・木花開耶姫大神・彦火瓊々杵大神・天神地祇八百萬神 |
社格等 | 扶桑教本祠・大教庁 |
鎮座地 | 東京都世田谷区松原1-7-20 [Mapion|googlemap] |
公式サイト | https://www.fusokyo.org/ |
御朱印
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(1)平成28年拝受の御朱印。中央の朱印は「神璽」。左下は「扶桑教太祠印」。揮毫は右に「奉拝」、中央に「丙申御縁年」、「心」字冨士に「大祖参神」、左に「冨士山太祠」「神道扶桑教」。
(2)平成30年拝受の書き置きの御朱印。上の朱印は「参神之璽」、下は「扶桑教太祠印」。左のスタンプは「冨士山太祠/神道扶桑教」。揮毫は右に「奉拝」、中央に「心」字冨士と「冨士山」。
(3)平成30年拝受、扶桑冨士塚・八大龍王権現社の御朱印。書き置き。上の朱印は「冨士山御内外八海龍神宮印」、下は「富士山烏帽子岩霊場」。左のスタンプは「松原扶桑冨士塚」。揮毫は中央に「八大龍王」、右に「蓬莱亀岩」、左に「内外八海」。
(4)令和3年拝受、道開社の御朱印。書き置き。中央の朱印は「日本バイクオブザイヤー」のロゴマークではないかと思われる。左のスタンプは「全国オートバイ神社/零番総本社冨士山太祠」。
御由緒
御祭神
■大祖参神
・天之御中主大神
・高皇産霊大神
・神皇産霊神
※上記の三柱の神を大祖参神〔おおみおやのかみ〕と総称する。
相殿
■天照大御神
■月夜見大神
■木花開耶姫大神
■彦火瓊々杵大神
■天神地祇八百萬神
祖霊殿
■藤原角行霊神…冨士道の開祖・長谷川角行
■伊藤食行霊神…中興元祖・食行身禄
■村上光清霊神…冨士道第六代
■宍野半霊神…神道扶桑教初代管長
■冨士道歴代先達
由緒
扶桑教は教派神道十三派の一で、同じく十三派の一である實行教とともに富士講身禄派(冨士道)の流れを汲む。藤原角行(長谷川角行)を開祖、伊藤食行(食行身禄)を中興元祖とする。教団としての初代管長は宍野半である。
藤原角行は天文10年(1541)長崎に生まれたと伝えられる。18歳で諸国霊場巡拝の旅に出、富士山の人穴に籠もって修行した。さらに諸国で修行を重ね、元亀3年(1572)には富士山の北口より頂上に至ったという。「天地平安 萬人安福」を真願とし、江戸をはじめ各地で病気治しを中心とする布教を行った。
角行が御神威を籠めて謹製奉願した神鏡は神宝として受け継がれ、現在は扶桑教太祠に奉斎されている。
食行身禄は寛文11年(1671)伊勢国の農家に生まれた。13歳で江戸に出て17歳で冨士信仰に入る。油商を営みながら修行を積み、布教に努めた。同時代の富士講の指導者である村上光清が大名や上層階級から支持されて「大名光清」と呼ばれたのに対し、庶民に教線を広げた食行身禄は「乞食身禄」と呼ばれた。
享保18年(1733)63歳の時、富士山八合目烏帽子岩で断食に入り、即身入定した。現在、その場所には扶桑教の富士山天拝宮がある。
その後、身禄の娘や門人が江戸を中心に富士講を広め、「江戸八百八講、講中八万人」と言われるほどに繁栄した。しかし、幕府は寛保2年(1742)以来富士講を禁圧、明治になって禁令は解かれたが、神道でも仏教でもない富士講は淫祠邪教と見なされ存亡の危機にあった。
扶桑教の初代管長となった宍野半は弘化元年(1844)薩摩国の郷士の家に生まれ、平田鐵胤の下で国学・神道を学んだ。教部省に出仕して宗教調査を行い、富士講の窮状を知って、復古神道の立場から富士講の再建を図ることとした。
明治6年(1873)宍野は浅間神社(富士山本宮浅間大社)の宮司に就任するとともに吉田の冨士浅間神社(北口本宮冨士浅間神社)などの社司を兼務し、諸講を糾合して冨士一山講社を設立した。明治8年(1875)冨士一山教会と改称して神道事務局に所属、翌9年(1876)2月には「冨士山・日本」を意味する「扶桑」の名をもって扶桑教会と改めた。
明治15年(1882)神道扶桑派として別派特立、その後、扶桑教と改称した。
扶桑教太祠(富士山太祠)は扶桑教の本祠で、明治9年(1876)芝区芝神明町(港区浜松町)に設けられ、扶桑教が特立すると大教庁が置かれた(Wikipediaによる。『松沢村史』には明治17年9月設立とある)。明治32年(1899)渋谷に移転、さらに大正7年(1918)荏原郡松沢村(世田谷区松原)の現在地に移転した。旧華頂宮邸を移築したという本殿や冨士塚も、芝神明町の旧地からそのまま移設された。
昭和20年(1945)空襲のため社殿等すべて焼失。昭和25年(1950)仮本殿を造営、さらに昭和42年、立教80周年の記念事業として現在の社殿が再建された。
扶桑冨士塚(松原冨士)
扶桑冨士塚は芝神明町の扶桑教太祠に築かれたもので、東京市中の富士講が競って石碑を築き上げ、高さ10メートルを誇る立派なものであったという。
扶桑教太祠が松原の現在地に移転すると、冨士塚もそのまま移設された。「松原のお富士さん」と呼ばれ、お胎内(洞窟)と池も備えて胎内参り(安産祈願)も盛んだった。しかし昭和20年(1945)の空襲で延焼、当局より立ち入り禁止が命じられ、取り壊されることとなった。
それから約70年経った平成29年(2017)、扶桑教太祠境内に「松原のお富士さん」が再建・復興された。
高さは富士山の千分の一にあたる3.7mで、冨士塚の三大要件とされる①富士山の黒ボク石を使う、②頂上に浅間社(木花開耶姫大神)を祀る、③登山道を配して上れるようにする、を満たしている。
さらに西側には角行が修行した人穴、八合目には蓬莱山亀岩龍王社が配された本格的な冨士塚である。
黒ボク石は元の冨士塚の残石等を使っている。現在、富士山の黒ボク石は採取禁止となっているため、今後、これほど大規模な冨士塚の造営はできないだろうという。
八大龍王権現社
富士山八合目の亀の岩八大龍王は、標高3,150mの日本最高の位置に鎮座する龍神様で、日本の水を司る龍神様の総元締めとして崇敬されている。
また富士山麓の内八湖、日本国内に外八海を配し、それぞれに龍神を祀る。いずれも長谷川角行が水行を行ったといういわれがあり、富士講信者の巡拝地であった。
内八海
①仙瑞(富士吉田市)、②山中湖(山中湖村)、③明見湖(富士吉田市)、④河口湖(富士河口湖町)、⑤西湖(富士河口湖町)、⑥精進湖(富士河口湖町)、⑦本栖湖(富士河口湖町・身延町)、⑧四尾連湖(市川三郷町)
外八海
①琵琶湖(滋賀県)、②芦ノ湖(神奈川県)、③二見浦(三重県)、④諏訪湖(長野県)、⑤中禅寺湖(栃木県)、⑥榛名湖(群馬県)、⑦桜ヶ池(静岡県)、⑧霞ヶ浦(茨城県)
道開社
中央に猿田彦大神と天宇受売大神、右に水の神である市杵島姫大神、左に土の神である埴安媛大神を祀る。御祭神が道開きと水・土則ち全国の山川の安全を護る神々であることから全国オートバイ神社の第零号 総本社の認定を受け、ライダーの交通安全の祈願所となっている。
写真帖
扶桑冨士塚(松原冨士)
メモ
初めての参拝は平成22年頃だったが、その時は御朱印の対応をしていなかった。その後、ネット上で御朱印を授与するようになったという情報があったので、申年の御縁年である平成28年に再度参拝、御朱印をいただいた。その際、冨士塚再建の計画があることをうかがい、完成後に是非また参拝をと誘っていただいたので、少し遅くなったが平成30年に三度目の参拝をした。
扶桑教太祠の概要
名称 | 扶桑教太祠 |
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通称 | 富士山太祠 神道扶桑教太祠 |
旧称 | 扶桑教大教庁 |
御祭神 | 大祖参神〔おおみおやのかみ〕 ・天之御中主大神〔あめのみなかぬしのおおかみ〕 ・高皇産霊大神〔たかみむすびのおおかみ〕 ・神皇産霊大神〔かみむすびのおおかみ〕 〈相殿〉 天照大御神〔あまてらすおおみかみ〕 月夜見大神〔つきよみのおおかみ〕 木花開耶姫大神〔このはなのさくやひめのみこと〕 彦火瓊々杵大神〔ひこほのににぎのおおかみ〕 天神地祇八百萬神 〈祖霊殿〉 藤原角行霊神(冨士道開祖長谷川角行) 伊藤食行霊神(冨士道中興開祖) 村上光清霊神(冨士道第六代) 宍野半霊神(神道扶桑教初代管長) 冨士道歴代先達 |
鎮座地 | 東京都世田谷区松原1丁目7番20号 |
創建年代 | 明治9年(1876) |
社格等 | 扶桑教本祠 |
神事・行事 | 1月1日/元旦祭・歳旦祭 3月春分の日/春季報元大祭 6月3日/開山御神火大祭(元祠/富士吉田市) 6月中旬/富士講まつり 7月中旬~8月中旬/冨士登拝 9月秋分の日/秋季報元大祭 |
交通アクセス
□京王線・井の頭線「名大前駅」より徒歩約5分
参考資料
・神道扶桑教公式サイト
・『松沢村史』(国会図書館デジタルコレクション)
・富士山と宗教(6)(Yahoo!ニュースオリジナル)
・富士山と宗教(19)(Yahoo!ニュースオリジナル)
・JapanKnowledge
・Wikipedia