正式名称 | 熊野神社〔くまのじんじゃ〕 |
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通称 | 城山熊野神社〔しろやま くまのじんじゃ〕 |
御祭神 | 伊邪那岐命 伊邪那美命 事解男命 |
社格等 | 旧郷社 |
鎮座地 | 東京都板橋区志村2-16-2 [Mapion|googlemap] |
【由緒概要】
長久3年(1042)志村将監が紀州より熊野権現を勧請したことに始まる。天喜年間(1053~58)奥州に下向する源頼義・義家父子が戦勝を祈願し、境内に八幡社を祀った。康正2年(1456)志村城に入った千葉信胤は当社を城内守護の神とした。志村城が落城した後も近隣住民の崇敬篤く、志村七ヶ村の総鎮守とされた。
城山熊野神社の御朱印
平成17年拝受の御朱印。朱印は判読しづらいが「熊野神社之印」と思われる。
城山熊野神社について
名称 | 熊野神社 |
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通称 | 城山熊野神社 志村熊野神社 |
御祭神 | 伊邪那岐命〔いざなぎのみこと〕 伊邪那美命〔いざなみのみこと〕 事解男命〔ことさかおのみこと〕 |
鎮座地 | 東京都板橋区志村二丁目16番2号 |
創建年代 | 長久3年(1042) |
社格等 | 旧郷社 |
例祭 | 9月19日 |
神事・行事 | 1月1日/歳旦祭 2月3日/節分祭 2月上午の日/初午祭 4月1日/祈年祭 6月30日/大祓 11月23日/新嘗祭・招魂祭 12月31日/大祓 |
御由緒
社伝によれば、長久3年(1042)当地の豪族・志村将監が紀伊国熊野より勧請したことを創祀とする。かつて、本社の背後に奥の院と称する石の小祠があり、その柱に長久三年と彫られていたことから長久年間の創建であることが推定できるという。
天喜年間(1053~58)源頼義・義家父子は、奥州討伐のため坂東の兵を集めるに際し、当社に武運長久と賊徒平定を祈願し、境内に八幡大神を奉斎したと伝えられる。
康正2年(1456)下総を逃れた千葉自胤が赤塚城(赤塚5)に入城すると、その支城として志村城に一族の千葉隠岐守信胤が入った。信胤は当社を城の守護神として深く尊崇し、社殿の修営や社地の寄進をおこなうとともに、当社の境内地を城の二の丸とした。社殿西側の低地は当時の本丸と二の丸の間の空濠の跡である。
大永4年(1524)志村城は北条氏綱により落城するが、その後も当社は近郷の人々の崇敬篤く、志村をはじめ小豆沢・根葉・前野・中台・西台・蓮沼など7ヶ村の総鎮守とされた。ただし文化・文政(1804~31)の頃には志村と中台村のみの鎮守となっていたという。江戸時代の別当は真言宗の見次山延命寺(志村1)であった。
明治5年(1972)村社に列格、明治33年(1900)には本殿を改築する。大正13年(1924)郷社に昇格。
現在の社殿は昭和32年(1957)に造営されたものである。明治に建てられた旧本殿は招魂社、江戸時代中期から後期の建築という旧拝殿は絵馬殿となっている。
絵馬殿内部には板橋区の有形民俗文化財に指定されている絵馬や扁額が掲げられている。なかでも『伊勢太々神楽奉奏図絵馬』は寛政7年(1795)に奉納されたもので、各地に残る同種の絵馬でも早い時期のものであり、伊勢太々講の活動を知る上で貴重な資料だという。
写真帖
メモ
都営地下鉄三田線・志村三丁目駅のすぐ南に鎮座する。かつて志村城があったという高台の上で、周囲を住宅街に取り囲まれていることを忘れさせるような緑豊かな境内となっている。当社の社叢は板橋区指定の天然記念物である。絵馬殿や志村城の空濠跡など見所の多い神社である。