三崎稲荷神社は、平安時代の末期、豊島郡三崎村の氏神として創建されたと伝えられる。かつては神田山(駿河台)に鎮座し、広大な社地を誇ったというが、徳川家康の江戸入府以降は都市計画のためにしばしば遷座し、境内が狭くなった。江戸時代、諸大名は参勤交代で登城する際、当社で祓い清めを受けることを恒例としたことから「清めの稲荷」と称された。
正式名称 | 三崎稲荷神社〔みさきいなりじんじゃ〕 |
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御祭神 | 宇迦之御魂大神 須佐之男大神 大市姫大神 大物主大神 |
社格等 | 旧村社 |
鎮座地 | 東京都千代田区三崎町2-9-12 [Mapion | googlemap] |
御朱印
(1)
(2)
(1)平成17年拝受の御朱印。朱印は「三崎神社」。
(2)平成22年拝受の御朱印。朱印は「三崎稲荷神社」。
御由緒
三崎稲荷神社は、社伝によれば仁安年間(1166~69)の創祀とされる(『平成「祭」データ』による。『東京都神社名鑑』では寿永元年(1182)、『神田区勢要覧(大正12年)』には建久年間(1190~98)以前の創建と伝えられるが年月は詳らかでない、とある)。もとは豊島郡三崎村の鎮守として、神田山(駿河台)の麓(現在の本郷一丁目)に祀られていたという。
大永4年(1524)、江戸城に入った北条氏綱は社殿を造営して社地数千歩を寄進し、三崎村の郷士・和田太左衛門を祠官として祀らしめた。
徳川家康の江戸入府以降は都市計画のためにしばしば遷座を余儀なくされ、境内も狭くなっていった。
慶長8年(1603)神田山を切り崩し、その土で日比谷入江を埋め立てる工事が行われたことにより西三町の地に奉遷した。この時の社殿は小石川町のあたり、参道入り口の鳥居は三崎町二丁目のあたりにあった。
万治2年(1659)外濠(現在の神田川)堀割の工事が行われることとなり、当社の社殿と鳥居の間に濠が通ることになったため、社殿を現在の三崎町二丁目の北部あたりに遷した。この堀割の普請を命じられた伊達綱宗は、工事が遅々として進まなかったために当社に落成を祈願したところ、無事に竣工した。そこで、神田川堤防の守護神とし、正宗の短刀一口を寄進したという。
万延元年(1860)には幕府の講武所が開設するため、旧水道橋西堤上(現在のJR水道橋鉄橋)に遷座。
明治5年(1872)村社に列格。明治33年(1900)社号を稲荷神社から三崎稲荷神社に改めた。明治38年(1905)甲武鉄道(現在のJR中央線)開通に伴い、現社地に遷された。
江戸時代、諸大名が参勤交代で登城する際、当社で祓い清めることを恒例としたことから「清めの稲荷」と称された。また、帰国の際にも参拝し、道中安全の守護を受け、霊験あらたかであったことから、旅行の神として信仰を集めている。
写真帖
メモ
水道橋駅のすぐ南に鎮座する。三崎町は江戸開府以前からの地名であるが、他の伝統ある町名と同じく、住居表示によって消滅しかかった。しかし、住民の猛烈な反対運動によって残されたという経緯がある。
平成17年に拝受した御朱印は「三崎神社」、同22年に拝受したものは「三崎稲荷神社」である。朱印が新しくなったのかとも思ったが、越後屋鉄道局秋葉原線さんやおとーの御朱印帳さんに掲載されている平成15・16年の御朱印でも「三崎稲荷神社」であり、むしろ「三崎神社」のほうが見当たらない。平成17年頃の一時期だけであろうかとも思われるが、調べた範囲では、飯田橋散歩路さんの千代田区神社巡りにあるぐらいで、これは拝受の時期がわからないので何とも言えない。
三崎稲荷神社の概要
名称 | 三崎稲荷神社 |
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通称 | 三崎神社 |
御祭神 | 宇迦之御魂大神〔うかのみたまのおおかみ〕 須佐之男大神〔すさのおのおおかみ〕 大市姫大神〔おおいちひめのおおかみ〕 大物主大神〔おおものぬしおおかみ〕 |
鎮座地 | 東京都千代田区三崎町二丁目9-12 |
創建年代 | 仁安年間(1166~69) |
社格等 | 旧村社 |
例祭 | 5月9日 |
神事・行事 | 1月1日/歳旦祭 1月9日/祈年祭 2月節分/節分祭 6月30日/大祓式 9月9日/秋季例祭 11月25日/新嘗祭 12月31日/大祓式 ※『平成「祭」データ』による |
交通アクセス
□水道橋駅(JR)より徒歩2分
□水道橋駅(都営三田線)より徒歩3分