第70番 七宝山 本山寺

70番本山寺

名称 七宝山 持宝院 本山寺
御本尊 馬頭観世音菩薩
所在地 香川県三豊市豊中町本山甲1445 [Mapion|googlemap]

【本尊真言】
おん あみりとう どはんば うん はった そわか

【御詠歌】
本山に誰か植えける花なれや 春こそ手折れたむけにぞなる

【略縁起】
大同2年(807)平城天皇の勅願により弘法大師が一夜にして建立したと伝えられる。元は長福寺と称した。天正年間(1573~93)長宗我部の兵火にかかったが、本堂・五重塔・仁王門などは難を免れた。長宗我部の兵が住職に斬りかかったところ、住職は無傷で脇仏の阿弥陀如来の右手から血が流れ落ちたため、驚いた兵たちが退去したと伝えられる。江戸時代になり、地名に因んで本山寺と改号した。

目次

本山寺の納経(御朱印)

  • 本山寺の納経

    (1)

  • 70番本山寺の納経

    (2)

(1)平成元年拝受の納経。揮毫は「馬頭観音」。中央の宝印は蓮台上の円に馬頭観音の種字「カン」、阿弥陀如来の種字「キリーク」、薬師如来の種字「バイ」。右上の印は「七十番」、左下は「香川県三豊郡本山寺」。

(2)平成18年拝受の納経。揮毫は馬頭観音の種字「カン」に「馬頭観音」。朱印は平成元年のものと同じ。

江戸時代の納経

  • 天保11年の納経

    (1)

  • 天保12年の納経

    (2)

(1)天保11年(1840)の納経。揮毫は「奉納」「馬頭明王」「本山寺」。中央の宝印は蓮台上に馬頭観音の種字「カン」、阿弥陀如来の種字「キリーク」、薬師如来の種字「バイ」。右上の印は「四国七拾番」、左下は「本山寺」。

(2)天保12年(1841)の納経。揮毫は「奉納」「本尊馬頭明王」「讃州 七宝山」「本山寺」。朱印は天保11年のものと同じ。

明治時代の納経

  • 明治38年の納経

    (1)

(1)明治38年(1905)の納経。版木押しで「本尊馬頭明王」「脇士弥陀薬師」「三尊供弘法大師一刀三礼御作」「西讃州」「七宝山 本山寺」。中央の宝印は蓮台上の円に馬頭観音の種字「カン」、阿弥陀如来の種字「キリーク」、薬師如来の種字「バイ」。右上の印は「七十番」、左下は「本山寺」。

本山寺について

山号 七宝山(しっぽうざん)
寺号 本山寺(もとやまじ)
院号 持宝院(じほういん)
旧称 長福寺
御本尊 馬頭観世音菩薩
所在地 香川県三豊市豊中町本山甲1445番地
創建年代 大同2年(807)
開山 弘法大師
宗派等 高野山真言宗
文化財 〈国宝〉本堂(附:厨子三基・棟札の部分一枚) 〈重文〉二王門 〈県有形文化財〉木造鎮守堂 木造善女龍王像 木造愛染明王坐像 木造金剛力士立像 本山寺蔵経文版木(83名)

覚え書き

讃岐平野に端然と五重塔がそびえる。広大な境内に国宝の本堂をはじめとする伽藍が並ぶ。
創建当初は七宝山長福寺と称したという。大同2年(807)平城天皇の勅願により、弘法大師が一夜にして建立したと伝えられる。木材は阿波の祖谷山より切り出して運んだが、本山の近くまで来たところで一本の柱を落とした。これに地蔵を彫ったのが番外札所の「枯木地蔵」であるとされる。
馬頭観音を本尊とするのは四国八十八ヶ所の中でもここだけである。本尊および脇侍の阿弥陀如来・薬師如来は大師が一刀三礼して刻んだものと伝えられる。最盛期には20余の塔頭と末寺を擁したという。
天正年間(1573~93)他の讃岐の札所と同じく長宗我部の兵火にかかったが、本堂などは焼失を免れた。これには「太刀受けの弥陀」と呼ばれる、脇侍の阿弥陀如来にまつわる霊験譚が残っている。
讃岐に兵を進めた長宗我部軍は、この寺に陣を構えようとした。住職は殺生禁断の地であるとして拒絶したが聞き入れられず、一刀のもとに切り捨てられた。ところが住職には傷一つなく、本堂の厨子が開いて阿弥陀如来の右の肘から血が流れていた。これを見た兵士たちは畏れて退却したという。
その後、領主の生駒一正から寺領を寄進されるなど寺運は興隆した。
長福寺から本山寺へ改号した時期について、平凡社の『日本歴史地名体系』は享保年間(1716~36)とする。この時期、9代将軍家重の幼名・長福丸の名をはばかって各地の長福寺が改称しているので、その一環とも考えられるが、貞享4年(1687)の『四国辺路道指南』、元禄2年(1689)の『四国徧礼霊場記』には「本山寺」とあるので検討が必要である。
『霊場記』に「この寺、本山の庄にあるが故に本山寺とよぶ。長福寺とぞきこゆ」とある。また『道指南』は17番札所を正式名称の妙照寺ではなく通称の井土寺(井戸寺)としている。これらを考えると、本山寺は通称として一般的に使われるようになっており、享保年間、正式名称になったとするのが妥当だろうか。因みに承応2年(1653)の『四国辺路日記』では「本山七宝山長福寺持宝院」となっている。
国宝の本堂は、昭和28年(1953)から行われた解体修理の際、礎石から正安2年(1300)の墨書銘が見つかった。二王門も鎌倉時代の建築で、国の重要文化財に指定されている。鎮守堂は江戸時代の建築と考えられていたが、昭和59~60年(1984~85)の解体修理により、天文16年(1547)の建立であることがわかった。
五重塔は創建時に建立されたものが残っていたが、老朽化のため明治43年(1910)現在の塔が再建された。
奥の院は七宝山妙音寺である。

写真帖

  • 山門

    山門

  • 鎮守堂

    鎮守堂

  • 五重塔

    五重塔

  • 大師堂

    大師堂

  • 本堂

    本堂

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