創建年代は不詳。古くは八幡社と称し、女塚村と御薗村の氏神であった。明治5年(1972)鉄道敷設で境内地が収容されたため、同21年(1888)現社地に遷座、女塚神社と改称し、女塚村のみの鎮守となった。境内に村名の由来となった女塚があり、新田義興公の侍女・少将局を祀っている。
正式名称 | 女塚神社〔おなづかじんじゃ〕 |
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御祭神 | 誉田別命 |
社格等 | 旧無格社 |
鎮座地 | 東京都大田区西蒲田6-22-1 [Mapion|googlemap] |
公式サイト | http://onazuka.kamatahachiman.org/ |
御朱印
(1)平成21年拝受の御朱印。朱印はなく社号の印判のみ。
(2)平成28年拝受の御朱印。朱印は「女塚神社」。
御由緒
元は八幡社と称して現在の蒲田駅東口付近に鎮座しており、女塚村と御園村の鎮守であった。旧別当は能栄山妙成寺(日蓮宗)。創建年代は不詳だが、『新編武蔵風土記稿』は棟札に慶長19年(1614)落成とあるので、この頃創建されたのではないかとしている。
明治5年(1872)新橋-横浜間の鉄道が敷設され、境内地が収容された。そのため風致が損なわれ、祭礼にも不便をきたすようになった。
明治21年(1888)、八幡社を現社地に遷座して女塚神社と改称し、女塚村のみの氏神とした。因みに御園村は村内の石居神社を御園神社と改めて氏神とした。
境内には村名の由来となった女塚があり、新田義興公(新田義貞の第二子で、矢口の新田神社に祀られている)の侍女であった少将局を祀る女塚霊神の祠がある。
伝承によれば、少将局は竹沢左京亮が新田義興の歓心を買うために京都から迎えられた若い上臈(高級女官)であった。竹沢が新田義興の暗殺を企てていることを察知し、義興に文を送って奸計を防止しようとした。そのため、竹沢に殺害され、遺体は捨て置かれたが、これを哀れんだ村人たちが少将局を葬ったのが女塚だという。
また、一説に寄れば少将局には七人の侍女があり、彼女らも運命をともにしたともいう。その生首が川に流されて女塚の里に流れ着いたので、里人が憐れんで流れ着いた地点に埋めて塚を築いた。その数が七つだったので女七塚と呼び、後の女塚は女七塚の訛ったものだという伝承が『蒲田町史』に記されている。
資料
新編武蔵風土記稿
八幡社
除地四畝。村の東南にあり。当村及び御薗村の鎮守なり。鎮座の年代を伝へず。棟札に慶長十九年落成のよしを記せり、此頃始めて造立せしにや。本社六尺四方。拝殿二間に九尺。前に石の鳥居をたて、八幡宮の三字を扁す。祭礼年々正月十日、神楽を奏す。村内妙成寺持。
写真帖
メモ
西蒲田の住宅街に鎮座する。鳥居の左右には紅白の梅がある。女塚は社殿の南側にあり、大きな御神木が聳えている。広くはないが、落ち着いた雰囲気の境内である。
当社は蒲田八幡神社の兼務社で、御朱印は蒲田八幡神社でいただける。
女塚神社の概要
名称 | 女塚神社 |
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旧称 | 八幡社 |
御祭神 | 誉田別命〔ほんだわけのみこと〕 |
鎮座地 | 東京都大田区西蒲田六丁目22番1号 |
創建年代 | 不詳 |
社格等 | 旧無格社 |
例祭 | 7月23日・24日 |
神事・行事 | 1月1日/元旦祭 2月22日/初午祭 6月29日/夏越大祓 11月25日/新嘗祭 12月23日/年越大祓 |
交通アクセス
□JR京浜東北線・東急多摩川線・池上線「蒲田駅」より徒歩約5分